消失狂想曲 - cruel comin'-

- * -
 そう、そこにキミの出番は無い。
 キミは彼女や彼を知る事も無く、彼女の気持ちに気づくことも無く、彼女と話す切っ掛けも無く。
 ただ淡々とした日々が繰り返される中、わたしだけがキミと共に歩む事になるだろう。
 倦怠感漂うサイクルに対しキミは人生なんてこんなものかと思うかもしれない。
 それこそがわたしが望んだ最高にして最善なサイクルなのだと、キミはわたしの気持ち同様に気づくことも無く。

 キミの出番は無い。
 わたしが、キミの全てを取り上げてしまうから。

- * -
「またな、佐々木」
 三重苦と自評した現状への決着を切望しつつキョンに別れを告げる。橘さんも引き上げてしまった以上彼との会合はこれで終了だ。
 キョンは最後に笑い終え一息ついている藤原へ一瞥を投げると小さく手をふり喫茶店から出て行った。
 視線と微笑だけで彼を見送るとわたしは先ほど彼の手勢のウェイトレスが置いていったコーヒーに口をつける。それほど時間がたったわけでもないコーヒーは、だが焙煎を味わうには飲みやすい程度には熱を冷ましていた。

「僕がまだいるのに帰るとはな」
 僕以外に残った最後の一人は不快を態度で表現しつつ腕組みをしながらこぼす。
「これで解っただろ? アイツはまだ何もわかっちゃいない」
「くっくっ、そうだろうね。前に会った時に鎌をかけてみたけど、キョンは九曜さんや橘さんにばかり注意を払っていた。
 つまりはそういう事なんだろう。地球外知性の人型イントルーダー、周防九曜。リミテッドな超能力使い、橘京子。
 直接的な脅威となるこの二人がいなければとりあえず問題はおこらない。まあ普通ならそう判断するだろうね」
 カップを再び口へと運び喉に苦味を送り込む。左手に持つソーサーへ形式的にカップを戻すとそのまま藤原を指差した。
「だが僕が真に恐れている存在は彼女たちではない。そう、キミだ」
 藤原はさも当然だと言わんばかりの横柄な含み笑いを浮かべるとコーヒーを口にする。
「朝比奈みくるは優秀だ。アイツを含め涼宮ハルヒ勢の連中から未来人という存在への恐怖を完全に取り除いただけでなく、アイツらから庇護される対象とまでなっているんだから。その点については掛け値無しで賞賛する」
「それを確認したんだね」
 橘さんがキョンに謝っていた朝比奈さんの誘拐劇。あれは一部の人間が先走った結果だと彼女は言っていた。
 未来から強力に干渉されていた為に成功の出目は無いだろうと踏んでいた、とも。藤原とその背景はその一件から様々な情報を得たのだろう。
 朝比奈みくるの一派がどのように干渉してくるか。
 涼宮さんに組する組織と橘さんたち超能力集団がどれほどの力を有するのか。
 そして何より、朝比奈さんがどこまで彼らSOS団に深く潜入しているのかを。

「ああ、そうさ」
 主語の無いぼかした問いかけに藤原は間をおかず答える。カップを置き片肘を立てて頬杖をつくと、その方頬に笑みを浮かべながら世界全てを侮蔑するかのようなため息と共に言葉を漏らした。
「本当、朝比奈みくるは優秀だ。未来人の能力をここまで曲解させる事に成功しているんだからな。
 未来人という存在は過去と未来を知り時間移動が出来るだけで、自分には影響が少ない力なき存在だと連中は考えているだろう。
 いざとなればどうとでもなると。
 全く愚かしいにも程がある。現地民やトイドールが何をしようと朝比奈みくるはどうにもできないのさ。未来の朝比奈みくるが五体満足ああして無事な姿で現れている以上朝比奈みくるの無事は時間という絶対的な流れが決めた既定事項であり、その既定事項を覆す事などは唯一つの例外を除いてありえない。
 いや、本来ならその唯一つの例外すらありえてはならない。過去における未来の不確定は未来にとって自身の存在が不安定となる事であり、危惧すべき最大級の危険となる。
 だからこそ僕はここにこうしている。その唯一つの例外、涼宮の持つ時空改変能力の為だけに」

 スプーンに角砂糖を載せコーヒーに少しだけ浸す。角砂糖が下から徐々にコーヒーカラーに染まっていく。
「随分と雄弁じゃないか。みんながいた時にそれだけ喋ってやれば橘さんも喜んだんじゃないかい?」
「付き合う義務は無い。それに橘は『その程度』じゃ喜ばない」
「……なるほど。それが橘さんの既定事項、か」
 崩れだした角砂糖をコーヒーに落としかき混ぜると、窓の外で未だにそぼ降る雨を見るとも無く見た。

 キョンは未来を知るという意味を額面通りにしか捉えていない。だからキョンは未来人を恐れていない。
 未来人はこの現代の事象全てに於いて先手を打つ事ができる。それもそのはず、彼ら未来人はこの時間を既定事項として把握しているのだから。わたしやキョンの生涯もまた彼らにとっては過去の出来事でしかない。
 彼らはわたしという人間の始まりから終わりまで全てを知っている。今のわたしが全く気づいていない、将来ようやく知るであろう自分が求める深層心理に潜在する嗜好も、わたしがこのような事象を体験すればトラウマを持つのではないかといった未来的予測も、彼らにしてみれば本を読むよりも簡単に知りうる事ができるのだ。

 そういう意味では宇宙人が万能たる力を持とうとも、超能力者がわたしの精神を掌握しようとも、全てを識る存在である未来人の力には到底及ばない。
 彼らは過去のわたしたちがどのような人間なのか全て把握している。だからこそキョンや彼らには彼らの嗜好を捉えつつ、だが全てを捉えない朝比奈みくるという存在が送り込まれたし、藤原もまたわたしのクリティカルポイントともいえる急所を迷う事無く突く事ができたのだ。

「まったく本当に──残酷とは、前触れもなく訪れる」
《狂神》を零しつつわたしは静かに目を瞑ると、わたしは心に深く刻み込まれた電気羊の夢を思い返していた。


- * -
 県内有数の進学率を誇る名門学院を自分の母校としてからはや九ヶ月。
 視線届かぬ天頂を時々見上げる癖がいまだ絶えないわたしは、今日もそれを自覚しつつ目の前で共に昼食を営む友人から窓の外へと視線を流して一息ついた。

「また、北を見てるんですか?」
 共学に通う一般女子高生の標準とも思える手の平サイズの弁当箱にフタをしつつ友人が聞いてくる。明るい栗色の長髪を頭の左右でまとめ上げた友人は、そのツインテールと呼称されるしっぽをぴょこっと跳ねさせつつ、わたしが見ている方角へと同じように目を向けた。
「自分の人生を賭けてまで選ぶ選択肢ではなかった……それはちゃんと理解しているつもりなんだけれどね。
 それでも時々考えてしまうの。もしわたしがもう一つの道を選んでいたらどうなっていたか。
 将来に不安はよぎるけれど、それを補うだけのものがあそこにはあったのではないか。……彼と会うと今でも考えてしまう事だわ」
 わたしが見つめる先にある高校へと進学した彼とは通学路が同じ事もあり、今でも時々会ったり遊んだりと交流し続けている。彼は中学時代と変わらず倦怠ライフを満喫しているようで、良くも悪くも変わらぬ彼に会うたび不思議な安心感で心が充足される。

「うーん……未だに佐々木さんがそこまで惹かれるほどの人に見えないんだけどなぁ、彼。確かに一緒にいて楽しい人なのは認めますけど」
「それが解っているだけでも十分よ。まあ何も知らない人からしたら単にぱっとしない男子って印象で終わっちゃいそうだけどね、確かに」
 でも彼には、キョンにはわたしには無い何かがある。たとえばこの世界をひっくり返してしまいそうな、そんな切っ掛けとなりそうな何かが。わたしはそう彼の事を評価していた。それ故にこうして彼と別の高校へと進学した今でも、彼の事を考えて北高を見上げてしまう、そんなクセがついてしまったのだった。
 決して両親や教師の言葉に右顧左眄して流されるようにこの学院を進学先に決めた訳ではない。
 ないのだが、もし彼らが薦めたこの光陽園学院ではなく北高へ進学する事を決意していたらどうなっていたか。
 わたしの日常に付きまとうこの燻って纏わりつく虚脱感は完全燃焼されていただろうか。今までもキョンと会う度に考えていた事だが特に最近はひどい。誰であろうと知る事の叶わぬifの世界、そんな無意味な事に思いを馳せるようになったその理由は、今まさに教室へと戻りこのクラスにおけるわたしの席の後ろ、教室最後列の窓際という特等席に座るなり
「……ふう」
と憂鬱を伴う溜息を吐く日課を持った風変わりなクラスメートにしてわたしの友人である彼女が原因に他ならない。
 彼女が憂鬱な理由を理解しているだけに、彼女に感化されてわたしも自分のいる場所が正しいのかと考え直す事が多くなってきたのだ。
 七夕の時には現状維持が望みだなどと考えていた筈なのに、気づけば今以上の交流を、刺激を、そして何よりも充足感を求めている。
 あの狂った存在の事もあるだろうが、どうやらわたしはこと彼との関係に関しては意外と貪欲な存在だったようだ。

 首を少しだけ動かし、視界ぎりぎりに彼女の姿を捉えると言葉をかける。
「今日も収穫無しかい?」
「見ての通り。毎日時間の無駄使い……本当、嫌になる」
「そいつはご苦労さま」
 机に突っ伏し不貞寝モードに入るのを確認し、わたしは彼女を放置する。
 それ以上彼女には決して立ち入らない。理由は簡単、彼女がそれを良しとしないから。
「ねぇ、いつも思うんだけど……佐々木さん、よく彼女と会話できるのね」
「そうかしら?」
 色々と感情を忍ばせ表情を緩める。確かに橘さんの言うとおり、後ろで不貞寝する彼女とコミュニケーションが取れる人間なんてのはクラスはおろか学院内でもごく僅かしかいない。
 成績優秀、スポーツ万能、容姿端麗、そして橘さんをはじめとした女子生徒の大半がうらやむような好青年の恋人を持つ彼女。
 誰がどう見たって勝ち組と呼ばれる人生を走っているのに、常に充たされぬ表情を浮かべる『問題児』。

 涼宮ハルヒ。
 わたしたちがいる光陽園学院の入学初日から日常を否定し、存在不明の超常を渇望する少女。
 彼女は、今なお日常が生い茂る幽鬱の中にいた。


- * -
 人が知り合う縁なんてモノは何処にだって転がっているもので、入学したクラスで男女別に名前順で並ぶ座席もまた一つの出会いの切っ掛けとなった。
 その突飛なる自己紹介で入学初日にしてクラスメート全員に変な奴と認定された涼宮さんはもちろん自己紹介だけで落ち着くような人間でもなく、その後の学院生活に於いても様々な行動言動を見せ付けていった。
 日常的な会話は全て一刀両断、全ての部活に仮入部しては部のレコードを塗り替えて即退部、休み時間になると学校中を駆け巡り収穫無しの漁師に負けないぐらい不機嫌なオーラを全開にしては教室へ戻る。
 中学時代にはキョンたちに変な女と云われたわたしだが、彼女ははっきり言ってわたし以上に変な存在だった。

「毎日増える髪型と筆記具のカラーチョイスは何かへのメッセージなの?」
 黄金週間と呼ばれる中途半端な連休明け、そんな彼女の奇妙な日常にわたしは前々から気になっていた疑問を投げかけてみた。
「……いつ気づいたの?」
「三週目に入ったときに一週間単位だって確信したわ」
「ふうん」
 月曜日は括りなしのストレートヘア、火曜日はポニーテール、水曜はツインテール……と、涼宮さんの頭には毎日一つずつ括られる髪の束数が増えていく。土曜には五つ束という不思議な髪型になるが、日曜まででリセットされて月曜にはまたストレートから再出発するというサイクルをみせていた。筆記具に関しても同じで、曜日によって外見が色違いのシャーペンを彼女は使用していた。
「……わたしさ、曜日には曜日の色ってものがあるように思えるのよ」
「曜日の概念が古人の都合で決められたものであったとしても?」
「ええ。古人がそこに何かを感じたからこそ曜日という概念を生み出したのかもしれないじゃない」
「七日間というサイクルに意味があるからこそ敢えて区分した……なるほど、興味深いお話ね」
 わたしは別に話をあわせた訳ではなく、本当に興味深い事だと思っていた。固定概念に囚われてしまえばそこで思考は停滞する。それが中学時代に貴重にして尊重すべき友人から教わった教訓だ。
 まぁその彼自身は常日頃から自分を包む倦怠感によってそういった突飛にして自由な思考をわざと秘匿・隠蔽している節があったが。
 だからこそわたしは、彼に似ながらもそれを隠蔽しないで突きつけ続けるという違った面をみせる涼宮さんという存在に興味を持った。

「この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたらあたしの所に来なさい、以上っ!」
 誰もが持つ常識という世界に対してなかなか言えない啖呵をあっさりきった、涼宮さんという存在に。

「あんた、佐々木さんだっけ。そういえばどうして男女で話し方が変わるの?」
「癖、みたいなモノかな。昔ちょっとね。それと女の子相手にあの話し方だと、大体惹くよりも引かれてしまう事が多いから」
「ふうん」
 涼宮さんはそれだけを返し机に伏す。それにしても彼女、クラスにもクラスメートにも興味が無さそうに思えていたが、それでも見るべき所、抑えるべき所はしっかりと見ているようだ。正直びっくりしたが、それ以上にわたしはその事実に対して心を躍らせた。
 気分上々にしつつもう話は終わりかなと身体を前に向けようとした時、うつ伏せたまま涼宮さんが最後に一つだけわたしに告げてきた。
「あっちのモードの方があたしは好感が持てるわ。少なくとも他人にへつらってるようには見えないし」
 彼女という存在がいる限りこの学院も満更ではない、いやかなりのもんだ。
 表現しがたいとよく評されるくつくつと言った笑みが零れ落ちるがわたしはそれを抑えもせず即座に切り替えて返した。
「いいだろう、了解した。ならば今後、キミにはこちらの姿で話させてもらうとしよう」


- * -
 それから三週間後。
 涼宮さんは突然に彼氏と呼べる存在を作り出した。

「全く以って驚天動地だよ。理由が解ってしまうだけに尚更ね。いつもながらキミの決断力と行動力には恐れ入る」
 一時間目後の休憩時間、涼宮さんはいつもと違った慌しさで教室を飛び出していった。その後普段より幾分苛立ちを減少させて戻った涼宮さんに大急ぎの理由を聞いてみればただ一言「彼氏を作ってきた」との事。
 おそらく彼女はマグロ以上に歩みを止めると死んでしまう存在なのだろう。わたしは彼女の熱意に心底感嘆した。
「解るんだ、理由」
「転入生の噂は僕にも聞き届いているからね。このあまりに中途半端な時期の転入、その転校には何か理由があるとキミはふんだ。
 だからキミはその転入生を彼氏というポストに迎え入れたんだ。
 キミの事だ、もし転入生が女性であったとしてもその者と交友関係を求めに馳せ参じた事だろう。違うかい?」
「正解。まぁ普通に考えたら誰だって解るでしょうけど。だからこそ誰よりも先に抑える必要があったのよ」

 残念ながらその思考は普通に考えたとしたならば誰にも解らない事だろう。しかも転校生という属性だけで彼氏にしてしまうなんてあまりにも突飛過ぎる。その転入生もよく肯んじたものだと逆に感心しかけたが、涼宮さんの事だ。おそらく有無を言わさずその転入生を彼氏にしてしまったのだろう。その時の光景がいとも簡単に思い浮かぶ。
「あぁ早く昼休みにならないかしら。彼の裏事情を徹底的に聞き出してやるんだから」
 名前もまだ知らぬその転入生に対し、わたしは心の中で合掌を送ってやった。


- * -
「そいつは確かに変わった奴だな」
 久しぶりに招かれた彼の家。わたしたちは世間話をしながら色彩豊かな折り紙を切り、折り、貼り合わせて様々な飾りを作っていた。
「ああ。おかげさまで僕は退屈しない日々を過ごさせてもらってるよ。涼宮さんには悪いけどね」
「違いない。っとテープをとってくれ」
 手近にあったテープを渡し、ついでに自分が切り分けていた飾りの足を彼のぼんぼりと繋ぎ合わせる。たった今完成したぼんぼりを始め、わたしたちの周りには紙のチェーンや星型の飾りなどがいくつか転がっていた。

「キョンくん次まだ〜? まだまだいっぱい飾れるよ〜。あっ、いっぱいできてる」
 彼の妹がやってきてわたしたちの作った飾りを拾い集めると足取り軽く縁側へ向かう。何の事は無い、そこに立てられたやや小さめの笹に飾り付けを行うためだ。
「ほれ、短冊だ。願い事を書いて一緒に飾っとけ」
「うん、走るの速くなりますよ〜にっ、って書くんだ。みよちゃんもらってきたよ〜」
 短冊の束を受け取って妹さんが友達のもとへ走っていく。その様子を見つめつつ彼は肩を落とすと、
「やれやれ、今以上すばしっこくなったらいざって時に捕まえるの苦労すんじゃねえか。他の願い事にしてくれよ」
そう苦笑交じりにわたしにこぼしてきた。

 七夕を間近に控えたある放課後。たまたま帰路を共にしていたわたしとキョンは、これまたたまたま妹さんとその友人が帰宅しているのに鉢合わせ、ついでに今日七夕の飾り付けをする予定だったと聞き、一緒にどうかと妹さんたちに誘われ現在に至る。
 彼は適当に折り紙を束で取ると細長く切り、両端を繋いだ輪を次々と繋いでチェーンを作り出していく。
 わたしも紙に切れ込みを多数入れて引き伸ばし天の川を模した飾りを作ったり舟を織り上げたりして七夕装飾を生産していく。そんな作業を行いながらわたしは件の姫君について最近気になった事を話し始めた。

「でもね、最近その涼宮さんの様子が微妙におかしいんだ。何ていうかいつもと違った、そうアンニュイ感が漂うといった感じでね」
 学院生活に対し早々に見切りをつけたのか、あるいは七夕という時期が関係しているのか。それはわたしには解らない。しかし常日頃学院中を駆け巡っていた暴走特急列車がここ数日停止線で止まるという姿を見てしまったら誰だって疑問に思う事だろう。
 キョンは新たな折り紙を取り出すと三つ折りにしてから切り分け、それぞれに糸を通して短冊を作りあげる。
 短冊の中には青や紫といった色も見受けられるので、五色がどうのと言うよりは単に余った折り紙の有効な使い方を考えた結果なのだろう。
 短冊に糸を通しながらキョンはふと手を止めると首を回してほぐし、そのまま一息つくとずっと考えていたのだろう事を話し出した。
「……ま、そんだけ面白い事が無いかと探し回って見つからなきゃ誰だって倦怠感が出てくるだろうよ。面白い事なんてそう簡単には起こらない訳だし、それを生み出せるのは本当に一部の天才と呼ばれる存在だけなのさ。
 きっとその涼宮って奴も気づいたんだろうよ。結局のところ凡人は現状に満足するしかないって事にな」
「なるほど、それが常日頃キミがキミ自身へと言い聞かせている言葉という事か」
 わたしは理解を示す笑みを浮かべて返す。
「何だそりゃ。どういう意味だ」
「いや失礼、今のキミの発言中の態度が先の彼女、涼宮さんと何だか近い感じがしたのでね。
 理性と呼ばれる表層意識では否定しているがキミもまたその深層意識では面白い事を渇望しているのではないかい?
 宇宙人、未来人、異世界人、超能力者、エトセトラエトセトラ……彼女の示した超常的な存在の、そのどれか一つでも現れれば世界が変わるぐらい面白くなる事請け合いだからね」

 そう、キミもまた世界の変革を求めているのさ。それがありえないと解っていながらも。それを追い求めるのは現代社会を生きる者にとって悪しき恥部であると考えていながらも。
 でもねキョン。先にあげたような不思議な存在や事象、ジュブナイル的なモノを追い求めるという行為は、悪でも恥でもない事なんだ。むしろそういったジュブナイルな存在を追い求め続けられた者だけが後世に天才と謳われる存在になれるのさ。
 今の涼宮さんは歯車がかみ合わず空転しているのだと思う。世界という名の歯車と、自分という存在の歯車が。
 だが、今彼女に必要なのは自分の歯車を世界に合わせて交換する事ではない。彼女にとって真に必要なのは世界と自分との間にもう一つ、小さくてもいいからその二つの歯車を繋ぐ為の小歯車、ピニオンを置くことだ。
 あの頃の僕がキミという存在を間に緩衝させた事で、世界という巨大にして冷徹な歯車相手に上手く回れるようになったみたいにね。

「くっくっ……キョン。僕はある可能性を考えている。もしかしたらキミなら、キミならば涼宮さんと世界を繋ぐピニオンにもなれるかもしれないとね。これはお世辞でも何でもない、僕の素直な感想さ」
「バカ言うな、いくら何でも買いかぶりすぎだ」
 短冊を指に挟んで回しつつキョンは照れてるとも気まずそうにとも取れる何ともいえない表情を浮かべていた。
「俺はそんな立派な奴じゃない。その涼宮って奴の緩衝材だなんて俺には無理だ。
 そうだな……俺にできる事といえば、せいぜい図書館の受付で困っている奴を捕まえてカードを作ってやるぐらいさ」
 何とも具体的な事例を出しつつ、照れ隠しかそのまま白い短冊を一枚差し出してくる。わたしは短冊を受け取ると、だが願い事を書く事はせずそのまま財布の中へとしまい込んだ。
「何だ、書かないのか?」
「僕は現状に充足しているからね。これ以上何かを望んだらきっとバチがあたる。願い事を書かない事こそが僕の願いなんだ」
 何だか解らないと言った表情をみせてキョンは頭をかく。その様子をわたしは表情を緩めて受け止めた。

 キョン……キミはさっきカードを作る程度しかできないと自分を評したけど、実際はそれで十分なんだよ。
 キミは単に余計な事に首を突っ込んで当然と思われる親切をしただけだと言うかもしれない。
 でもね、キョン。カードを作ってもらった人から見れば、その行為こそがまさに世界と自分を繋いでくれたピニオンだと言えるんだ。
 きっとその人はキミという存在を心に深く刻み込んだことだろう。わたしには解る。わたしもキミと言う存在に出会った人間だから。
 だからこそわたしは何も望まない。
 わたしは今こうしてキミといられる事に満足している。だが新たな望みが叶うという事は、この世界が変わってしまうという事だ。

 わたしの望みは現状維持。キミと共に歩んでいるこの世界の永続──それだけだから。


- * -
「意外と長く続いてるね、涼宮さんと」
 日本の学生の大半が待ち望み、また社会人の何割かが羨ましがるであろう学生にとって最長期休暇に突入したのは今からほんの数時間前の事である。簡潔に述べるなら今日は夏休みの初日という事だ。
 数泊分の宿泊準備をカバンに詰め朝早くから乗り込んだフェリーは、現在全方位が二種類の青で構成される世界をただひたすら走っていた。予定ではあと数時間はフェリーに乗っている事となっている。
 初夏の陽射しが容赦なく降り注ぎ、また海洋から反射して眩しさを過剰に振りまくフェリーの甲板で手すりに寄りかかりながら、わたしは隣でやや疲労気味に微笑む青年へ話を振った。
 青年は潮風で乱れた前髪を軽くかきあげ顔からにじみ出ていた疲労感を体内へ押し込むと、学院で見慣れた人当たりの良い好青年の姿へと戻る。
「意外と、とはどういう意味でしょう」
「そのままの意味さ。歯に衣着せずに語るなら、キミ程度の器では一学期終業を待たずに破局すると踏んでいた」
「手厳しい評価ですね。……そうならなかったのは、ひとえに努力の賜物ですよ。この旅行もその一つです。
 僕は僕なりに涼宮さんに見限られないよう日々努力しているつもりですから」
 その好青年──古泉一樹は船内を駆け巡っているであろう自分の彼女、涼宮さんを思うような視線を見せて爽やかに微笑んだ。

 彼の親戚の別荘へと招待されたのは一学期も終盤、期末テストも終わり午前授業へとカリキュラムが移行した頃だった。
 彼にしてみれば涼宮さんのみを誘いたかったのだろうが、流石に孤島の別荘に涼宮さん一人ご招待というのはモラル的に問題ありと判断したのだろう。涼宮さんに誰か他にも誘いましょうかと尋ねてみたのだそうだ。
 そうしたら件の姫君曰く、
「いてもいなくてもかまわない人間なんて何人誘っても同じよ。この学園にはそんな奴しかいないんだから。
 でもそうね、敢えて誰か名を上げるとするなら佐々木さんかしら」
とのお言葉らしく、ここに涼宮さんの栄えある友人代表として白羽の矢が立ったわたしもまた彼の別荘へと招待される運びとなった。

「涼宮さんの退屈を解消させたいなら孤島で殺人事件でも自演すればいい。まず間違いなくキミという存在に花丸採点をつけてくれるさ」
 結局のところ、涼宮さんは普通の事では満足できない為に、常に退屈な日々を過ごしているだけなのだ。だとしたら涼宮さんのご機嫌を取る方法はいたって単純明快、非日常的なイベントを実施するだけでいいのだ。
 ただ非日常的なイベントという荒唐無稽なカテゴリをどう充たすかがまさに無理難題な部分であり、それ故に彼は躍起になって彼女の為のプログラムを考え、涼宮さんは充足されぬ日常を過ごしているのだが。

「殺人事件ですか。ええ、実はそれも真剣に考えました。ですが流石に僕一人ではどうにもならなかったので没にしたんです」
 だろうね。別荘にいる全員が親戚の友人一人のために殺人事件を模したサプライズパーティを行うなど、よほどノリが良い人たちでなければ無理な話だろう。その親戚だって休息する為に別荘に来ているのだ。
 わたしたちに別荘を提供するだけでも感謝してもらいたいぐらいの気分でいるはずだ。
 それにしても本気で殺人事件劇まで考えるとは。
「いやはや、そこまでしてキミは彼女の事を繋ぎとめておきたいのかい?」
「もちろんです。僕も最初はびっくりしましたよ。転校初日の一時間目終了後にほぼ一方的な交際宣言なんて聞いた事ありませんからね。
 この人は何を言っているのか、いったい何者なのかと思いましたよ。……今にして思えばそれが罠でした。
 あの時から今この瞬間まで僕はずっと嵌り続けているのでしょう。エデンに実る禁断の果実並に魅力的な、彼女と言う存在の罠に」
「それはそれは、ご愁傷さまと言っておこう」
「お互い様ですよ」
 違いない。わたし自身がこの関係に固執していないのに対し、彼は万策投じて関係を維持しているという大きな相違点はあるのだが、何だかんだ言ってわたし自身が涼宮さんと交友関係を維持している限り、傍から見ればわたしも彼と同じ穴の狢なのだろう。
 我が心の友の口癖を借りるのならまさに「やれやれ」といった所か。
 この旅行に対して涼宮さんがいつまで興味を示していられるか──その結果が解るのもそう遠い未来ではない。
 わたしは潮風に当たりながら未だにフェリー内を探索する少々不機嫌な友人の姿を想像しながら追いかけていた。


- * -
 孤島から帰ってきて数日後。ふとした切っ掛けからクラスメートの橘さんと近所で開かれる夏祭りに一緒に行こうという話になった……のだが。
「浴衣を着るという行為自体は否定しないけれど、それを誰かに見せる当ても無いのは少々寂しくないかな」
 いつの間にか夏祭りには二人で浴衣を着て歩くという事にまで話は進展していた。よって今日の予定はまず浴衣を調達し、それからいざお祭りに出陣するというなんともハードなスケジュールとなっている。
 浴衣を試着しつつ漏らした言葉に、胸を躍らせながら浴衣を選んでいた橘さんは虚をつかれた表情で瞬きをみせてきた。
「何を言ってるんです。見せる相手なら、ちゃんといるじゃないですか」
「見せる相手? いったい何処に?」
 今日誰かと会う予定でもあったのだろうかと考えるわたしに橘さんはポンと自分の胸を手のひらで叩くと、
「ほら、こうして佐々木さんの目の前に」

 薄紅色に朝顔の柄をあしらった浴衣を纏い、下駄を鳴らして街を歩く。
 普段見慣れた界隈もそこを歩く人々の熱気や聞こえてくる祭囃子、時間帯、そして自分の格好まで違うとなるとここに来るまでの過程はどうであれ、否応も無く気分も高揚してくるというものだ。
「あ。ほら佐々木さん、屋台とかも見えてきましたよ。ふふ、楽しそう」
 瑠璃色に金魚柄という浴衣で隣を歩く橘さんも似たような感じなのか、その明朗快活な性格がいつも以上に増幅されている。
 いつものツインテールには桜桃のようなぼんぼり飾りが追加されており、まるでアメリカンクラッカーのような楽しげなゆれ具合はそのまま彼女の心情を表しているかのようだった。

「あれ、もしかして佐々木か?」
 不意に背後から馴染み深い声で名前を呼ばれる。立ち止まり軽く振り向けば、そこには思っていた通りの人物が事もあろうにその両脇にそれぞれ標準以上の評価を貰い受けておかしくない浴衣姿の女性を伴い立っていた。
「やあキョン、奇遇だね。もちろんこの祭りという行事や場所に対してではなく、人波がごった返すこの喧騒たる賑わいの中でこうして僕たちが偶然にも出会えた事に対してだがね。
 さて僕のほうからも外交辞令以上の意味を込めて挨拶させてもらうとするなら、キョン、両手に花とはまさに今のキミの状況の事を指し示す言葉なんだろう。
 キミを羨む男子生徒の声が今にも其処彼処から聞こえてきそうだ」
「小学生二人の、しかも一人は妹の保護者役がそこまで羨ましがられる状況だとは知らなかった。何ならお前に譲ろうか?」
「遠慮させてもらうよ。なに、キミにとって掌中の珠と思われる純粋無垢で可憐な少女たちに対し、ほんのちょっと嫉妬心を加味した他愛ない冗談を述べただけだ。という訳で改めてこんばんは、お二人さん」
「こんばんは〜ささにゃんっ」
「こ、こんばんはです」
 わたしの言い回しが全く解っていない妹さんと、何やら色々な感情を含んで返してくるみよきちこと吉村さん。
 二人とも浴衣を着ておりその外見的評価は先ほどわたしが褒め称えた内容そのままである。おせじなんてものはわたしが加味した嫉妬心の量すら混入していない。

 挨拶を交し終えたところを見計らい、キョンは相変わらず緊張感を何処かに置き忘れてきたかのような倦怠感をみせつつ口を開いた。
「大体俺が両手に花の状態だというのならお前だってそんな可愛らしい人を連れて歩く羨ましい奴、って事になるじゃないのか?」
「ああもちろんだとも。今日の僕は彼女の引き立て役だと自覚しているからね」
 これも言葉に深い意味のない正直そのままな今の感想を述べたつもりでいたのだが、橘さんは自分が褒められる事よりもわたしに対するわたし自身の評価が許せなかったようだ。
「何言っているんですか! そんな事無いですっ! 佐々木さんは十分綺麗で可愛いですよ!」
 あなたもそう思いますよね、とその勢いでキョンにわたしの感想を投げかける。そんな事を聞かれたらキョンも困るだろうにと、即座に助け舟を出してその場をごまかそうとしたのだが……その時わたしの口からは何一つとして思考が言語化される事が無かった。

 なぜだろう。
 歌を忘れたカナリアの如くわたしはただ肺にたまった呼気を音もなく吐き出すしかできない。
 わたしは、助け舟の意味をこめてその場をごまかそうとしていた思考以外のわたしは、いったいこの場に何を望んでいるのだろうか。

 わたしは、全く動けなくなっていた。

「まあな。佐々木も容姿に限って言えばそこらの連中に遅れをとらないと思うぞ。まさに黙っていれば、って奴だ」
 それは突然に。永遠の刹那を抜けわたしの時が動き出す。
「黙っていればって……もうっ、一言多い人ですね。何でこう、もっと素直に褒められないんです?」
 橘さんの批判の声を伴奏にわたしは自分自身を確認する。どうやらわたしの心を絡み捕っていた謎の呪縛は、先の彼の一言であっさりと解呪されたようだ。
 結局のところ何だったのか……それは解らずじまいのまま、それでもわたしは彼からの感想を返すべくいつもと変わらぬ口調で、いつもと同じような言葉を何とか用意した。
「まあ落ち着いて橘さん。キョンは、彼は実に素直に答えてくれているわ。もうこれ以上ないってぐらい素直にね。彼の事を知らない人は一言多いと思うかもしれない。でもね橘さん、彼の辞書にはどの版で調べてもおべっかという文字は存在していないのよ」
 朗笑しつつ橘さんに彼と言う存在について語る。そして最後に彼を見ると、こちらからも一言だけ忠言してやった。
「まあ、だからこそキミはプレイボーイという言葉からは縁遠い存在でい続けるのだろうがね」
「なるほど……納得なのです」
「うるせえ、余計なお世話だ。っていうかお前らのほうが一言も二言も多すぎだ」
「キョンくんプレイボールしっかく〜」
 妹さんの言葉を機にその場にいた者たちが一人を除いて笑いあう。その除かれた一人、件の中心人物はどう表現すればいいのか解らないといった表情で頭をかきつつ、結局いつもの口癖と共に嘆息を吐く事で思考を纏め上げたようだ。

「いやすまない。これでも口下手な僕なりに褒めているつもりなのさ、キョン。
 それにしても……くっくっ、キミのせいで笑いが止まらないよ。まさかキミの口から僕の容姿に対してお褒めの言葉をいただけるとは思わなかったからね。 ここ最近では一番の驚愕だ。
 普段のキミならそうだな、あの童顔に反した膨よかな胸部を持つ癒し系少女や、隣の着物をスタイリッシュに決めた長髪女性なんかがお眼鏡にかなう存在だと思っていたのだけれどね。それともキミはもしかしてこの会場に雨や雪でも呼び込んで、傘を用意していない僕たちを濡れ鼠にするつもりなのかい?」
 彼からの賞賛に対しわたしなりの礼を返したら、彼は嘆息を零しつつ眉間にしわを寄せて呟いた。
「あー、そこの佐々木のお連れさん。これでもこいつに黙っていればの冠詞は必要ないと?」
「男は黙って何とやらでしょ、プレイボーイさん」
 キョンはわたしにではなく橘さんへと水を向けるも、どうやら桶でかけ返されたようだった。

「えー、ささにゃん雨が降るの? 雨はやだよー。あ、そうだキョンくん! わたしリンゴあめ食べたいな〜。みんなもりんごあめ食べたいよね?」
「えっと、わたしは……」
「キョンが奢ってくれると言うのならご相伴にあずからせて貰うとしよう」
 吉村さんの躊躇に声を被せる。彼女の意には反するかもしれないが、ここは彼への攻め時だ。心中笑いつつわたしは隣に立つ橘さんに対して「あなたも一緒にどう?」と振る。
 橘さんは自分の浴衣の襟を軽くつまむと、
「リンゴ飴? あれって溶けて浴衣とかについたら大変なことになるんですよね。それに舌も赤くなるし」
 軽く舌を出しつつ訴えるが、すぐに引っ込めると誰もが好感を持てるだろう爽快な笑みを浮かべつつ、
「という訳で、もちろんゴチになります」
とわたしの意図した通りに答えてくれた。

「だ、そうだ。よかったねキョン、どうやら今日はプレイボーイになれそうだよ」
 彼の財布へ死刑宣告を伝えると共に朗笑が場を支配する中、キョンは観念したのかもう一度幸せを逃すため息をこぼして肩を落とした。
 なに、大丈夫だよキョン。キミが逃したその幸せはちゃんとわたしが拾い上げているから。
 通行人に気を使いながらリンゴ飴を手にしつつ、彼らと肩を並べて屋台が並ぶ道を時間をかけて歩きながら、わたしは言葉にはせずに彼へ告げた。


- * -
 いわゆる一般的に言う所の文化祭、光陽園学院音展祭は毎年秋分の日前後に行われる。
 この学院の音展祭は一風変わっており、学級単位での展示発表や模擬店などは行われない。そういった音展祭の『展示』を行うのは部活や有志の面々たちである。では学級単位では何を行うのかというと、
「ほら、男子! もっとちゃんと声を出してっ!」
とここ毎日飛びまくる橘さんの檄からも解るとおり音展祭の音の部分、すなわち『音楽』を担当する事となる。
 全学年学級対抗の合唱コンクール。一般開放される本番で行われるこの大会、最上級生には最上級生としての維持が、下級生には下級生なりの思惑がひしめき合い、何だかんだで毎年弥が上にも盛り上がりを見せてくれる音展祭のメインイベントだった。

「でも残念ながらキミのお眼鏡にはかなわないんだよね、姫君」
「この程度で盛り上がれるなら最初から不思議な事なんて渇望してないわよ」
 不承不承ながら参加していると言うオーラを隠すことも無く、眉間に皺を寄せ全く興味がないと半目でそっぽを向き腕を組みながら、それでいて誰よりも綺麗にメロディラインを奏でる。
 コンクールに必要な分は提供してるわと言わんばかりに涼宮さんはある意味完璧に歌い上げてみせていた。
「当日はコンクール以外に希望者による個人演奏とかもあるけど?」
「興味ない。人の演奏にも、今の流行曲にも。もっと言うなら展示部門にも。どうせ予測の範囲内よ」
「そう」
 否定はしない。彼女の予想を超える事態が起こるなんて可能性は万が二つ程度しかなく、地球規模の天変地異以上の偶然か、あるいは涼宮さん本人が行動を起こした時のみ起こりうるだろうからだ。
 そして涼宮さんが行動を起こさない限りその可能性は望むべくもない。わたしでは彼女に行動を起こさせるまでには至れないらしく、彼女の空転思想は数ヶ月たった今でも続いているようだった。

 結局音展祭当日、涼宮さんはわたしたちの学級の発表一分前に集合し、ステージで忿懣遣る方無い態度を全身で表しつつも見事に歌い、自分たちの発表終了と共に姿を消すとその日一日は彼女の姿を見る事はなかった。
 実に彼女らしい参加の仕方である。
 特に賞を取ることもなくコンクールは終了し、はれて自由行動となったわたしは今日来ると約束してくれたキョンの元へと向かう為に校舎内を歩いていた。
「また彼ですか? はあ、佐々木さんともあろう人が、何であんな人なんかに……」
 何故かわたしと共に歩く橘さんにぼやかれる。わたしは別段深い理由がある訳でなく、ただわざわざ来てもらったお礼が言いたいだけだと伝えようとして、だが伝える前に「その存在」がわたしの視界を縫いとめてしまった為、わたしは結局反論する事はなかった。

 一般客やら生徒やらが往来する廊下、その柱の一つにその男は腕を組んで寄りかかっていた。
 見た目的には古泉一樹と並ぶほどの好青年、だがその実男から感じられる雰囲気はどこか影を感じるといった次元ではなく、全てに於いて負の方向に傾いたと言って過言ではない気配をかもし出していた。
 男は特に誰を見るでもなくただ寄りかかったままでいる。だが男はその雰囲気でわたしの事を捉えていた。
 男から感じる空気を読む限り、男はわたしを捉えるためだけにわざわざこんな場所にまで足を運んできてやったんだと言いたいようだ。

 涼宮さんがこの男の事を知れば本当に残念がる事だろう。
 何せ彼女が望む非日常、万が二つの確率がこうして当たってしまったのだから。

「……佐々木さん。あれ、あの人って、一体」
 わたしが足を止めたからか、隣を歩いていた橘さんも立ち止まり同じ男を見つめている。
 第一印象、外見だけで言うのならただの好青年だ。橘さんの興味が惹かれるのも解らなくはない。
「さぁ……わたしの記憶には引っかからない人ね。今日は一般にも開放しているし、誰か学院生の知り合いなんじゃないかしら」
 彼に興味を持ったのかしら? と続けて聞こうとしたのだが、橘さんがわたしの袖の裾を小さく掴み身体を近づけてきたので言葉が止まる。
 目を転じてみれば橘さんは彼に対し興味と言うよりは恐怖、怯えといった様子を見せている。彼女もこの気配を感じ取ったというのか。
「どうしたの?」
「何でだろう……彼、変な感じがするんです。怖いというか、何と言うか。……近づかない方がいい気がする」

 わたしも心から賛成する。君子危うきに近寄らずとは良く言ったものだ。
 だが、例え天使が歩くのを恐れる場所であろうと、どうやらわたしは進まなければならないらしい。
 それがバカバカしい行為と思えようとも。
「橘さんは迂回したほうがいい。どうやらあの男が用があるのはわたしだけみたいだしね」
「そうはいきません。一人より二人のほうが、いざと言うときに何とかなります。
 応援を呼んで来いと言うのも無しですよ。そう言ってあたしがいない間に、佐々木さんは彼と接触するつもりでしょうから」

 ほぞを固めたのか、わたしの左腕にしっかりとしがみ付きながら橘さんは強い眼差しを返してきた。わたしは意を決し、まるで熱い恋人たちのように腕にしっかりと身体を寄せてしがみ付く橘さんを同伴しつつ、その男のそばへと歩いていった。
 わたしたちが近づいてもその男は姿勢を変えず、目線すら動かそうとしない。焦燥感で早足にならないよう、またそれを悟られないよう慎重に足を繰り出し、互いに視線を合わせぬまま男の目前を通過しようとした所で、

「介入できているようだな。僕の事を認識した」
喧騒の中でも聞き取れる静かながらもハッキリとした声で呟いてきた。
「既定通り問題はない、成功だ」
 彼の言葉は聞き取れるが、その意味は全く以って理解できない。彼は何を言っているのだろうか。足を止め橘さんに目線で尋ねるが彼女も心当たりが無いらしく首を大きく振って否定する。
 このまま無視する事も考えたが、わたしは敢えて接触する方を選ぶ。
「僕たちに何か用でも?」
「今はまだ無い。いずれ解る、それがあんたの既定事項だ」
 それだけ告げると男は柱に預けていた身体を戻し、わたしたちとは逆の方向へと歩き去ってしまった。

「あ、キョンくん! ささにゃんみ〜っけ!」
 男が見えなくなった後もその場に立ち尽くしていたわたしたちに快活な声が届く。男の見えない鎖に束縛されていたわたしたちはそこでようやく身体は動かせるものだと思い出す。
 振り向くと、こちらに向かって走ってくる可愛らしい誘導弾を放ちつつのんびり手を振って存在証明するキョンの姿がそこにあった。
「よう、さっきの合唱見せてもら……ってどうしたんだ? 二人して死神にでも会ったかのような青い顔をして」
 先だって着弾した妹さんをわたしから引き剥がしつつ彼が訪ねてくる。その言葉にずっと抱きついていた橘さんへ注意をむけると、確かに橘さんの顔色は肝を冷やしたかのように真っ青になっていた。
 おそらくわたしも同じような感じなのだろう。あの男から感じ取った全てが負の方向へ傑出した型破りな雰囲気。
 あれは男自身のものだったのか、それとも男とは別の、あの時わたしたちが男以外に認識できなかった位置に立つ何かしらの存在からなのか。

「いや、ちょっとばかり背筋が寒くなる事があってね。全身総毛だち命が縮む思いだったのさ」
「おいおい、いったい何があったんだ。どこかで爆発騒動でもあったのか」
「爆発程度なら良かったんだが……敢えて表現するならそうだね、幽霊に出会ったとでも言うべきかな」
 あまりに突飛な回答にキョンの思考が停止する。そんな彼の表情を見ていると何だか先ほどの戦慄がどうでもよく感じられてきた。
 橘さんの肩にそっと手を置き子供をあやす様にポンポンと軽く叩いて落ち着かせる。
 橘さんもようやく頭と本能の両方で安全になったと感じ出したのかしがみ付いていた手の力を徐々に抜きはじめ、代わりに腕を絡めるように取ると自分の身体を預けてきた。
「本当、怖かった。……でもこうしていられるのはちょっとだけ役得気分かな。ふふっ、羨ましいでしょ」
「いや別に」
 何が何だか解らないがとりあえず大丈夫そうだと言う事は理解してくれたのだろう。
 キョンは橘さんを真似て自分に抱きつく妹を視線だけで見つめながら「余計な事を教えてくれたもんだ」といった意味合いの長い嘆息を交えつつこぼした。
「さて、特に何でもないんだったら色々案内してくれないか? とりあえずは妹が興味を示して俺から離れてくれるような所を所望する」
 無論、仰せのままに。わたしはゆっくりと頷いてみせた。


- * -
 光陽園学院に音展祭があるように、北高にもまた北高祭と呼ばれる文化祭がある。北高祭は音展祭とは違い所謂一般的に言う所の文化祭の流れを汲んだものであった。
 わたしは一人、正門から昇降口まで並ぶ模擬店を横目にキョンの学級教室へと足を運ぶ。
 遊びに来いと誘ってくれた彼の話によると彼のクラスの委員長がかなりのやり手らしく、展示と模擬店を同時に行うなかなか面白いモノに仕上がったと聞いていた。
 入口で貰ったパンフレットを眺めつつ彼の教室へ向かっていると、そんなわたしを導くかのように何処からか馥郁たる香りが鼻を掠めてくる。
 やがて目的地にたどり着くと、丁度受付をしていたかつての級友がわたしの事を出迎えてくれた。

「あれ、佐々木さんじゃないか。久しぶり」
「やあ国木田、久しぶり。男子三日会わざれば刮目して見よとは言うものの、どうやら君は相変わらずのようだね」
「まあね。特に束縛されることもなく飄々と羽を伸ばした生活を送ってるよ。そっちはどうだい? 確か光陽園だったよね」
「日々の勉学の為に週数日の塾通いといったレベルさ。学園自体の面白みは常に品薄状態だがそれでいて目玉商品が無い訳でもない。
 フラストレーションが溜まるまでには至らないというまるで僕という存在をそのまま象徴するかのような日常を送っているよ」
 欲求不満を訴えるのはもっぱらわたしの後ろに座する彼女の仕事だ。
 涼宮さんには悪いが、わたしはそんな彼女の変化を眺めているだけで退屈を紛らわす事ができている。
 それにわたしには橘さんや他の級友もいるし、さらには一般人たる一般人の彼もいる。

「それはご苦労さま。どう、少し休んでいかない? キョンももうじき戻ってくるはずだし、その間退屈はしないと思うよ。佐々木さんの事を呼んだのってキョンでしょ? だったらお代はキョンにつけておくから」
 それは流石にキョンに悪い。彼の懐の為にも目一杯ご馳走になる程度でとどめておく事にしよう。
「それがいいよ」
 国木田の含みにくつくつと言った忍び笑いで返す。早く戻ってこないと破産するよキョンなどと勝手な制限時間を胸中で設けつつ、わたしは教室の入口に掛けられた看板に顔を向け、この企画内容を彼から聞いたときから気になっていた事を訊ねてみた。
「ところでこの企画、十月に行うには少々気が早いように感じられるのは僕の季節感がずれているせいではないよね」
「あってるよ。でも意外と評判良いんだよ。季節はずれって意外性もあるけど、やっぱり味が美味しいってのが一番かな」
 中に向かって一名の来客を伝えつつチケットと配布物を差し出される。そして営業的スマイルを浮かべると、
「では改めて、僕たちが自身を持って提供する実演展示会『おでんの歴史と作り方』、その目と舌で心行くまで楽しんでいってね」
そう言って中へどうぞと案内してくれた。

 客席の一つに案内されて着席する。前の席の対応をしていたエプロン姿の少女がカウンターからの呼びかけでこちらに気づくとにっこり微笑みながら「一年五組へようこそ」とファミレスのように挨拶をみせ、
「じゃ、ゆっくり楽しんで行ってね。自由時間になったら部室を覗かせてもらいに行くから」
と対応していた相手へ小さな声で伝えてカウンターへと戻っていった。
 どうやら友達の相手をしていたらしいそのセミロングの髪を軽く結わいた少女はお冷とメニューを手にすると、わたしの席へ改めてやってきて人当たりの良い笑顔と共にお冷を置き、メニューを丁寧に差し出してから改めて挨拶してきた。
「いらっしゃいませ、チケットを戴きます。こちらの盛り合わせでよろしいでしょうか? お嫌いなタネとかがありましたら遠慮せずにおっしゃってくださいませ。代用のタネと交換いたしますので」
「構いません、そのままでお願いします」
「わかりました、少々お待ちくださいませ」
 少女は小気味良い対応でカウンターに戻りわたしの注文を奥へと伝える。そして新たな水を取ると別の席への接遇へ向かいだした。
 前に座っていたショートヘアの少女はそんな彼女の事を少しの間眼で追っていたが、ハーフリム眼鏡の智に手を沿えて一度グラスの位置を合わせなおすと小動物のように昆布巻をちまちまと食べ始めた。

「お待たせしました」
 少しして先ほどのセミロングの少女が使い捨てプラ容器に入れられた盛り合わせおでんを運んでくる。おでんを机に置くとエプロンのポケットから箸とチューブからしを取り出しおでん添えるかどうか聞いてきた。
 わたしが断ると少女は箸だけをわたしに差し出してくる。
「では、ごゆっくり」
 と挨拶をしてその少女が下がる。わたしは割り箸を取ると二つに割り、いただきますと挨拶を呟いてまだ季節はずれと取れるおでんをひとつ、またひとつと口に運んで堪能した。

 ここがキョンの教室なのかとのんびりと室内の雰囲気を眺めながらおでんを半分ぐらい食べ終えた頃、
「よっ、もう来てたのか」
そう聞き覚えのあるいつもの声と共にようやくわたしの待ち人が姿を現した。彼の呼びかけに右手を少し上げて応えつつ、ふと教室内に軽く響いた先ほどの呼びかけに、わたし以上に全身の筋肉で反応を見せて動きがぴたりと止まってしまった前の席の少女が気になった。
 驚いたともとれるがそれにしては少々違った反応である。目の前の淡い少女を視界の隅に捉えつつ、わたしは上げた右手に持つ箸を動かして腹と舌の満足度について語ってやった。

「やあキョン、悪いが先に一人で楽しませてもらってるよ。キミの財布を財源としたこの風味豊かなおでんでね。
 盛り合わせ皿のタネに関東特有のちくわぶと関西以西特有の牛スジの両方を加えるよう英断を下した人物に対して、一遊客がほめそやしていたと伝えておいてくれたならばなお嬉しい限りだ。
 おでんという品目を選んだのもスジがいい。下味さえしっかりしていればこれほど失敗しづらい料理も他にはないしタネの補充もしやすい。
 その上時間が立てばたつほどおでんはその風味を増し、結果、仄聞し訪れた客はその評価以上の味を楽しむ事が可能となる。
 これら全てが計算尽くの行為だとしたのなら、僕はそのエンターテイナーに対しこのおでんの対価を払う事で賞賛としようではないか」
「だとよ、朝倉。ちなみにその対価の出所は俺の財布だがな」
 わたしが寸評を語る間にキョンは向かいの席につき財布を振りつつため息をこぼす。
 キョンの言葉と手にしていた盛り合わせチケットに反応して先ほどわたしに応対したセミロングの少女がキョンの分のおでんと水を持ってやってくる。

「ありがとう、そう言って褒めてもらえると企画者としてすごく嬉しいわ。もちろんクラスの一人としてもね」
 もぎりとしてチケットを受け取りつつ、少女は本当に楽しそうな表情を浮かべて微笑んできた。
 そんなキョンたち二人の後ろ、俯きながらもこちらの様子をちらちらと伺っていた前の席の少女は少々挙動不審な感じで立ち上がると脇に置いてたパンフレットと本を持ちやや急ぎ気味に教室を出て行ってしまった。
 おそらく彼女の親友なのだろう、朝倉と呼ばれたエプロンの少女はそんな退席する少女を見つめつつふぅと軽くため息を溢していた。わたしはそんな少女を見つめつつ心中で軽くお詫びしながら、
「くっくっ。なに、遅刻罰金なんてよくある話さ」
いつもの笑みをこぼしつつ味の染み入った大根を切り分けて自分の口へと運び味わった。


- * -
 キョンと暫く展示巡りを行い軽くなった財布の分だけ心と空腹を充たしたわたしは、やはり同じように遊びにやってきた彼の妹さんへ彼の身柄を引き渡すと一人で当て所もなくぶらつく事にした。
 その一環で少し古めの校舎へと足を運んだのもただの偶然でしかなければ、
「あら、さっきの」
と先ほどキョンのクラス展示でおでんを運んでくれたセミロングの少女と再会したのもまたただの偶然だった。

 文科系の部活動の拠点となっているらしく、普段は物静かであるだろうその校舎も今日は賑わいを見せていた。
 料理研究会からはスウィーツ特有の甘い芳香が活動内容を宣伝流布し、階上からは単調な電子音がリズム良く流れてくる。
「文芸部で友達が展示しててね。陣中見舞いってほど忙しくはないだろうけど、様子を見に行ってあげようと思って」
 特に目的も無かったわたしは彼女と共に他愛の無い会話をしつつ他と比べ人ごみ少ない階段を上がる。踊り場で反転し更なる階上を目指そうとしたその時、突如としてあの時の負の感覚が満身貫かん勢いで襲い掛かってきた。
 思わず眼を見張るとはこの事か、わたしは階上へと顔を向け、そして見た。

「────────」

 あろう事か人の姿をして階上に立つ、その不透明な異質存在を。

 つい先日から冬服へと衣替えを行った為、ここ最近はわたし自身も普段身に纏っている慣れ親しんだ黒を基調とするブレザーの制服を装い、ボリュームがあると言う表現すら生ぬるい程その全身の質量配分を烏の濡羽色と謳える程の髪へ配分したようなその少女は、まるで蒸留水のような希薄さと和紙に墨を落としたかのような圧倒的な存在感という相反する主張をあっさりと混ぜ合わせたような深い迫力を持っていた。
 先日の無粋人から感じたのは間違いなく彼女の力だと、理性や本能より先にわたしという存在の全てが認めてくる。
 空虚にして無限。例えるなら今のわたしがしているように上空を見上げると常にそこにあるモノ。
 暗夜に人が見上げる暗黒にして静寂たる天蓋領域──まさに宇宙と表現するのが一番相応しき存在。それが彼女だった。
 あと半歩でも近づけば即座にわたしの全てが飲み込まれて消失してしまうまさにデッドエンドな事態。
 そんなギリギリのラインに立たされわたしは声を発する事はおろか、無意識呼吸すら止めてしまいそうな状態に陥る。

「……彼女、あなたの知り合い?」
 共に歩いていた彼女もまたわたしに並び足を止める。あんな存在とは問答無用に初対面だが、だが初対面と言い切れない部分もあり彼女への回答に詰まっていると、
「ごめんなさい、聞いちゃいけない関係だったみたいね。それじゃわたしはこれで」
そう挨拶を残し躊躇無く階段へと一歩踏み出した。
 そんな彼女の行動に五感の全てがシグナルを鳴らしてくる。わたしはとっさに彼女の腕を取って引きとめようとしたが、その前に。

「────まだ……早い」

 驚くべき事に階上の存在がわたしたちに理解可能な言葉を発したかと思った次の瞬間には、わたしたち二人の身体は同極磁石が弾かれる以上の勢いで吹き飛ばされ、踊り場の壁に叩きつけられていた。
 全身の骨が突然の衝撃に悲鳴をあげる。よろめきつつも地面に降り立つとその隣で一緒に歩いていた彼女が糸が切れた操り人形の様にその場に頽れた。衝撃で意識を失ったのだろうか、倒れたまま全く反応が無い。
 異形の存在に警戒していたわたしと違い、彼女にしてみればまさに不意打ちだったはずだ。
 彼女の安否も気になるが、わたしはそのまま痛みを訴える全身で何とか立ったままその存在とコンタクトを取ってみる事にした。
「早い、とはどういう事?」
「────────今はまだ……何も──無い」
 何も無い? 今はまだ?
 彼女が何を指して何も無いと言っているのか全く解らないが、とりあえずこの存在と遭遇したのがわたしと彼女だけで助かった。
 巻き込まれた彼女には悪いが、もしキョンといた時にこの存在と出会ってしまっていたらと思うとぞっとする。
 この存在はあまりにも異質だ。
 世界どころが次元が違いすぎる。この静寂たる無の存在と解り合おうとする努力と同等の労力を費やすだけで、おそらくこの惑星上から人類同士の騒乱なんてものは簡単に無くなる事だろう。

 だがこちらがそう考えコミュニケートを放棄しようとしても向こうが接してくるのでは仕方が無い。
 相手がどう答えるかなど考えるだけ無駄だと、わたしは率直な疑問をぶつけてみた。
「……要求は何だい。キミたちは僕に何を望む」
「相変わらず良い反応だ」
 正直、反応など全く期待してなかっただけにこの回答は驚いた。ただし言葉を発したのは目の前の天蓋領域ではなく、その存在の横から姿を現した先日の無粋人だったが。

「僕達が何者か、とか言うありきたりで実を結ばない無駄なやり取りがない。あんたのそういう部分に関してだけは僕は《鍵》なんかよりもよっぽど有能だと認めている」
 男は嗜虐的に口をゆがめて不快感しか相手に与えないだろう笑みを浮かべる。
 そのまま隣に立つ異質な存在へサムズアップ状態の親指を向けるとこの状況にも配役にも全く興味が無いと言わんばかりに言葉を投げ捨てた。
「コレが言った通りだ。あんたはこれ以上ここに近づくな、僕たちの要求はそれだけだ」
「従おう。僕は彼女を連れて退散する、それで構わないね」
「好きにすればいい。そいつにはしてもらわなくてはならない既定事項があるが、それまではどうしようと構わない。このまま放っておくもあんたの親友に連絡して返すも、あんたの自由にすればいい」
 わざわざ親友などという単語を出して告げてくる、アキレス腱を狙った返しに思わず自分を見失いそうになる。
 一瞬の身体の硬直や直後に男を睨み返したわたしの様子でバレバレだろうが、それでもわたしは努めて平静を装っているかのように振舞いをみせた。
「ならば好きにさせてもらおう」
 男を無視し倒れたままの少女へと近づく。素人判断だが呼吸を始め外見に異常はなく出血とかも見当たらない。
 どうやら彼女はただ意識を失っているだけのようだ。そうした診断をしている間も階上からはあの男の癇に障る言葉が降り注いでくる。
「好きにするがいい。あんたが駆け上る坂道で僕と再会するその《時》まで……それが既定事項だ」
 冷酷さを加味した嘲笑を男がする中、ふと突然に全身に浸透する単語をわたしは捕らえた。

「────────クル──エル カミ……」

 反射的にわたしは階上へと振り向くが、そこにはもう既に二人の姿は存在していなかった。二人が去ったからか人の流れが戻ったようで、
「散る散ると書いて散々かぁ、くそっ、どうして俺の良さがこうも相手に伝わらないんだ……?」
と髪を掻き揚げつつ今日の成果を思い返して愚痴る、お調子者と称するのが一番正しい評価ではと思われる男子生徒が歩いているだけだ。
「あぁ手に取るように解る、国木田やキョンが俺の成果を聞いて指を指して笑う姿が……チクショウッ!」
 意外な所で聞きなれた人物の名が出たこともある。階上を歩くその男子生徒を呼び止めてみると、最初は気だるそうに、だが呼び止めたわたしが女生徒だと解ったら楽天的に、そしてわたしが介抱している女生徒が自分の知る人物だと解ると一転して真剣な眼差しをみせて階段を駆け下りてきた。

 倒れている女生徒を再確認してからわたしと二人がかりで男子生徒に負ぶわせる。
「俺が朝倉、あ、こいつの事な。とにかくこいつを保健室まで運んでおくから、あんたは1年五組まで行って誰か呼んできてくれないか? 委員長が倒れたから誰か来てくれって」
 了解の意を示し少女をその男に託すとわたしは人ごみを回避しながら駆け抜けキョンたちの教室まで引き返す。
 生憎と国木田やキョンの姿が教室に見受けられなかったので、適当に近くにいた女生徒へ声をかけて委員長の朝倉さんが倒れた事を告げた。
「朝倉さんが!? ちょっと待って、すぐに向かうから!」
 他のクラスメートへ話を流し、さっきの女生徒が奥からカバンを持って戻ってくる。
「準備できたわ。行きましょう、それじゃ保健室へ!」
 さあ案内してと言わんばかりにわたしの手を取り足踏みをする。
 わたしも勢いに乗せられ足を出そうとするが、ふと重要なことに気づいて繋いだ手に力が入りっぱなしの、まるで今すぐ散歩に飛び出しそうな犬のように気持ちが急いている女生徒へと振り向いた。

「ごめんなさい、見ての通り他校の生徒だから北高は詳しくなくて。あなたが案内してもらえると助かるのですが」
「え……? あ、ご、ごめんなさい! こっちなのね、保健室は」
 言われてようやく気づいたのか、女生徒はまるでリードにつながれた犬が全速力で飼い主を引っ張りつつ散歩するかのようにわたしの手を引っ張りながら保健室まで案内してくれた。
 冷静に考えればわたしは単に連絡役を仰せつかった部外者なのだから、わたしを保健室へ案内する必要は全く無いのだが、彼女はそこまで頭が回らなかったようだ。

「おう阪中、こっちだこっち」
 保健室の一角でパイプ足の丸椅子に座っていた先ほどの男子生徒がわたしたちを見つけると呼び寄せる。
「谷口くんだったのね、運んだのは。それでどうなの、朝倉さんの様子は」
「気を失ってるだけで問題は無さそうだとさ。保険の先生は病院に連れて行くかどうか話し合いに行ってる」
 わたしも場の流れのままにベッドの傍へとより様子を伺う。打ち所が悪かったのか単に時間の問題なのか、彼女は相変わらず意識が戻っていないまま、ベッドに寝かされブランケットがかけられた状態で眠っていた。
「わたしが見ておく、朝倉さんのこと。谷口くんはクラスの方をお願い」
「そうか、じゃ悪いが任せたぜ。クラスの連中にはとりあえず落ち着いてるって話しとくからよ」
 男子生徒は立ち上がると軽く手を振り保健室を後にした。女生徒はそれを見送ると椅子を近づけ眠り続ける彼女の様子を心配そうに伺う。わたしは少し離れた場所に位置取りして彼女が起きてくれるのを待つ事にした。

「……ん、っ」
 静かに眠り続けていた彼女が軽く眉を寄せて息を漏らしたのに気づき、付き添いの女生徒に近づいて共にベッドを覗き込む。
 彼女はゆっくりと一度身体を右に向けて転がし、再度元に戻すとまた少し息を漏らしてからゆっくりと両の瞳を開いた。
「……あれ。ここは……?」
「気づいたのね、よかった」
 級友の覚醒に心から喜ぶ女生徒を寝ながら見つめつつも、覚醒したばかりの彼女には何がどうなっているのかまだ解っていないようだ。
「保険の先生に連絡した方がいいのでは。ここはわたしが見てますから」
「あ、そうよね。うん、行ってくる」
 わたしからの提案に女生徒は納得すると慌てて立ち上がり「お願いするね」と残して保健室を出て行った。

 わたしは女生徒が先ほどまで座っていた椅子に着席すると横たわる彼女に語りかける。
「ごめんなさい。意識が飛ぶ前の事、覚えてるかしら」
「……えっと、文芸部へ向かおうとあなたと歩いてて、それから……」
「上にいた人たちに気を取られて足を滑らせたの。わたしかあなたのどちらかは解らないけど。それで二人で踊り場に落ちたって訳」
 適当に真実と虚実を混ぜて話す。彼女は完全に巻き込まれただけのただの被害者でしかなく、ならばあの存在の事など知らない方がいい。あの男が言っていた「してもらうべき既定事項」というのも気にはなるが、今は切り出すべきではない。わたしはそう結論付けた。
「そっか。それじゃわたしも謝らないと、ごめんなさい」
 話しつつ彼女が保健室の扉へと視線を向ける。何かと思いわたしも視線を向けると、どうも扉の外に誰かが立っている様子だった。
 足音を消しつつ近づいて扉を開けると、外にいたその人物は小さく「ひっ」と声を漏らして全身で驚きを見せた。

「……えっと、朝倉さんが」
 外に立っていた人物──先ほどわたしの前でおでんを食べていた短髪の少女が悲鳴と同じく小さな声で呟いてくる。
 わたしはあぁと頷くと身体をどかして彼女を中へ通しつつベッドの方へ声を投げた。
「あなたにお見舞いみたい。後の事は彼女に任せてもいいのかしら?」
「長門さん、来てくれたの? ええ、後は彼女にお願いするわ。介抱してくれて本当にありがとう」
 先ほどまでとは打って変わって和やかな雰囲気をみせる。
 わたしは椅子に降ろしていた手提げを持つと「後は頼みます」と見舞いに来た少女へ会釈して保健室を後にした。

 先日、そして今日とあまりに常識以上の事がありすぎた。わたしは盛大なため息をつくと昇降口を出たあたりで振り向き夕陽に染まった校舎を見つめる。
「声が聞きたい……な」
 ポケットに入れた携帯に手をかける。だがそろそろ北高祭も終了時刻、彼はクラスの後片付けなどで忙しい事だろう。
 仕方ない、彼が帰宅した頃を見計らい家から電話するまで我慢しようと考え、わたしは一人北高を後にした。


- * -
 ある行為の途中で雨が降り出した場合、その日を表すのに「ワンデイ イン ザ レイン」という表現は果たして適切な語句だろうか。
 寒さが増す師走に入り、キョンと偶然鉢合い下校していたある日の事。
 彼が猫を拾い哲学的な名前をつけたという話に花を咲かせていたわたしたちは、突然降り出した雨に会話を中断して適当なビルの軒下へと避難する事となった。

「悪かったね。キミ一人なら自転車に乗って帰ってたから雨にあたる事も無かっただろうに」
「なに、自転車で通っていればこんな日もあるさ」
「だが今日は僕に付き合ったが故の惨事だ。だからキミは気にせずにこれを使うといい」
 濡れた髪を水分飽和しかけているハンカチで拭きながら苦笑をみせる彼に汗拭き用の小タオルを差し出す。
「お前が使えよ」
「もちろんそのつもりさ。但しキミの後でね。それともキミは僕の使用済みタオルを所望するのかい?」

 特有の笑いを浮かべながら、身長差を利用して少しだけ状態を倒し上目がちに見つめながらタオルを差し出す。
 彼はわたしの顔から全身へ視線を落ち着かせず走らせ、すぐにそっぽ向いて表情を隠すとタオルを受け取り自分の髪を拭き始めた。
 雨露で濡れ鼠となった全身のうち、頭と顔をとりあえずさっぱりさせるとすぐにタオルを返してくる。どうせまた濡れるからと制服とかは諦めたようだ。
 わたしはタオルを受け取ると彼に習い髪から顔にたれる雫をぬぐいつつ、軽く仕掛けていた罠を公表してみた。

「まあ今日の体育の時間の後で一度使っているから、これは最初から僕の使用済みタオルな訳なんだけどね」
「……そうくるか」
 何とも表現しがたい引きつった笑いと諦めを足した様な表情を浮かべながらキョンは眉間に手をやり口癖を呟く。
 そんないつも通りの彼を見ているだけで心底からほっとしてしまう自分がいた。
「そうくるのさ。……それにしてもキミは本当に僕にとって大事な人間だよ。ちょっとした会話だけでこんなに僕の心が癒されるんだからね」
「何だそりゃ。全く、癒されたければ女性らしくアロマテラピーやヒーリングでもしてろよ」
「佐々木には可愛らしい乙女チックな雰囲気が似合うな、そうキミが僕を見て断言してくれるのなら実行しよう」
「すまん、無理」
「助かるよ、僕自身も似合わないと思っているからね」

 あの日以来、わたしの胸中にはえもいわれぬ不安が常に渦巻いている。
 こうして彼と出会ったり話したりしているとその憂慮なモノは徐々に消えていくのだが、彼と別れたり話し終えたりするとその負の感情は再びわたしの心中で復活してくる。しかも消失前よりも大きくなって。
 キョンの事を求めているのかとも考えた。確かにそんな気持ちがある事は否定しないが、この懸念はそんな簡単な事ではない。
「という訳でキョン。僕とこうして肩を並べて歩いてしまった運命だと割り切って諦めてくれ」

 わたしは何かを恐れている。
 姿の見えない、言葉すら思いつかない、その何かを。


- * -
 冬はいよいよ本番を向かえ、雪が降る日も珍しくなくなってきた。街にはクリスマスへの準備と風邪が流行しだし、またクリスマスイブに先んじて数日後に訪れる冬至のためにと南瓜と柚子が店頭にちらほら並びだす。

「クリスマスはどうするんだい?」
「普通にパーティ、とはいかないでしょうね。やはり」
 古泉一樹と偶然登校時間が重なったわたしは彼と共に登校しつつ尋ねる。どうも彼はわたしに対して苦笑と悩み多き心中を見せるのが習慣になりつつあるようで、やはり今日も困った笑みを浮かべて腕を組みながら次のイベントに頭を悩ませていた。
「だろうね。涼宮さんが喜ぶような不思議パーティなら僕も一度くらい体験してみたいと思うよ」
 同じ不思議でもあの闇の存在たちは遠慮したいが、そう心中でのみ言葉を付けたし彼に返す。
 もちろん超能力者でも心理学者でもない彼はわたしの言葉を理解できる訳もなく、どうすれば涼宮さんが喜ぶか、それだけが全てのパーティ企画をあれこれと思案していた。

「……正直に言いまして、最近の涼宮さんからは僕に対して飽きている感じが伝わってくるんですよ」
「夏にも言ったけど、よくもまあ九ヶ月も恋人関係がもったものだと僕は素直に感心しているんだけどね」
 彼に倣い僕も正直に返す。残念だけど彼は涼宮さんを満足させられるだけの器を持った人間ではない。彼女が未だに憂鬱の表情を浮かべ続けているのが何よりの証拠だ。
「返す言葉もありません。ですがそれをただ認めて彼女の事を諦めるほど僕は諦めのよい人間ではないんです」
 解っているさ。面白い事を彼女に提供しようというそのキミの粘り強さ、それこそが涼宮さんが今でもキミと関係を続けている唯一つの理由なのだから。

 もしかしたら彼は涼宮さんを喜ばせられる存在に化けるかもしれない。
 今はまだ力量不足が否めないが、あと少し、彼と涼宮さんを変える何かきっかけが起これば、彼は本当に涼宮さんのパートナーになれるかもしれない。最近ではそう思うようになってきた。
 さっき彼に対して器で無いと言ったが、涼宮さんが本当に彼の事をどうでもいい存在だと思っていたのならば、わたしが予想したとおり夏前には彼女自身によってその関係をぶっつりと切られていたはずだ。

「僕の考えを言うならば」
 彼にしては珍しく表情から笑みを消し、真剣な眼差しを中空に向けつつ心情を吐露しだす。
「涼宮さんは僕の思考を読みきってしまっていると思うのです。だから僕が何を仕掛けようとそれは涼宮さんにとって予測範囲内であり、ただの予定調和でしかない。
 例えるならば将棋やオセロと同じです。格下の相手に二人零和有限確定完全情報ゲームを延々と続けたところですぐに飽きが来てしまう事は誰にだって解ります」
「今のキミ達に必要なのは場をかき混ぜるべくトリックスターだと言う事かい?」
「ええ、その通りです。前から考えてました。彼女が真に驚くようなサプライズを求めるのなら、僕以外の要因が必要なのではないかと」

 なるほど、夏に僕を誘った本当の理由はそれだったのか。
 第三者の介入で場をかき混ぜ予測不能にする為のランダムノイズ、彼はその大役をわたしに求めたようだ。
 だが悲しいかな、わたしが発生させられるぶれ値もまた微小でしかなく、結果的に涼宮さんの枠を突破する事はかなわなかったという訳だ。
 彼の考えは間違っていないのだが、如何せん選ぶ人間を間違えている。わたしもまた彼に近い、どちらかというと策士よりの思考を持つ人間である。
 彼が求める予測不可能状態を発生させようとするのなら、似たような人物でなく全く逆のタイプを放り込むべきなのだ。
 計算ではない天然で動く人間や彼女以上に場を楽しもうと思う人間を。
 全員が主役では面白くない。名脇役がいてこそ主役は映えるのだ。

「実に難しい課題です。涼宮さんと付き合える人物と言うだけでもかなり絞られてしまいますからね」
「ああ、実に難しい課題だよ。でもその苦労こそが彼女と共にいる為の代償なのだからね、現状維持を求めるならキミは頑張るしかないのさ」
「肝に銘じておきます」
 気持ちを引き締めここでようやく普段の快い笑みを浮かべる。
 彼がいつ涼宮さんとの関係に膝を折ってしまうかなどそれこそ予測不可能な話だが、それでもクリスマスぐらいまで続きそうだなと考えわたしはこの奇妙な友好関係にある彼に対し、口には出さずにエールを送った。


- * -
 マカオ返還何周年と言った一高校生が都市生活を行うのにてんで関わらない当たり障りのないニュースを流すTVをBGMに朝食を取る。ニュースと共に流れる天気を聞き外を見ると灰色に染まった曇り空が広がっていた。
 今日の寒さも相成って、もし降るとすれば雨ではなく氷雨か、あるいは初雪となる事だろう。肌に刺さる寒さを感じつつわたしはいつも通りに家を出た。
 学生の本分として自分が居るべき場所へと到着すると椅子に座って後ろを振り返る。憂鬱姫はどこかへ出かけているらしく、机の脇にかかったカバンだけが持ち主の所在が現在学校にあるという事を告げていた。

「おはよう佐々木さん、今日は一段と寒いね」
 橘さんが気温に対してやや過度に防寒対策していた手袋とマフラーを外しつつ挨拶してくる。寒さが苦手なのか、それとも彼女なりな一足早めの冬物お披露目会なのか。
 外すだけなら自分の席で外せばいいのをわざわざこちらに歩きながら行うと言う事は、少なくともそれらについてわたしからの意見が欲しいというサインなのだろう。
「おはよう橘さん。どうしたの、その可愛らしい防寒グッズ。昼からの寒さを予測して? それとも冬のファッション?」
「ふふ、どっちもです。こういうカラフルな毛糸モノって好きなんですよ。あぁ、早くお昼にならないかなぁ」
 昨日から短縮授業となっているので昼がくれば授業は終了、部活に入ってない橘さんは午後は丸々自由時間となり、彼女のお気に入りの毛糸の手袋とマフラーをつけて遊びに出られるという事になる。
「今日はどこかへ出かけるのかい?」
「ええ、クリスマスに向けて色々買い物しようかなって。佐々木さんも行きません?」
 せっかくの誘いだが、残念な事に今日は冬季講座の塾探しをしないとならない。
「えー、本当に残念ですよー。他の日にとかならないんですか?」
「説明会が今日までとかで無理なの。でも、逆に明日とかだったら予定空いてるから一緒に出かけられるわよ」
「本当ですか!? 絶対ですよ!」

 まるでクリスマスプレゼントを期待する子供のように目を輝かせつつ何度も釘を刺される。苦笑しつつ確約の返事をしながら、わたしは今の彼女のように眼を輝かせて大はしゃぎしていたキョンの妹さんの事を思い出していた。
 去年は受験だなんだと慌しい冬休みだったが、そんな中キョンに呼ばれたクリスマスパーティで、わたしはキョンと共に資金を出し合い妹さんへ抱き心地のよいぬいぐるみをプレゼントしてあげた。
あの時の妹さんのはしゃぎようと、そんな妹さんの姿に照れ笑いを浮かべるキョンを見て、わたしは生まれて初めてパーティとはこんなに楽しいものだったのかと実感したのだった。

 そういえば今年はどうするつもりなのだろうか。明日橘さんと出かける時にいくつか候補を探しておくことにしよう。
 ついでにキョンへのプレゼントも用意しておいたら面白い事になるかもしれない。
 きっとこれはどういう事かと眼を丸くした後に自分は用意してなかったとちょっと後悔しつつさてどうしたものかと困り果てるだろう。
 そんな姿を想像するだけでくつくつと笑みが浮かんでくる。

「佐々木さん、まだ笑うのは早いですよ。それじゃ明日絶対ですからね」
 わたしの笑いを誤解しつつ橘さんは上機嫌に自分の席へと戻っていた。
 それと入れ替わるかのように光陽園学院きってのクイーンが恒例となった不機嫌丸出しの表情を浮かべて登場した。
 わたしの後ろにつき頬杖と共にため息一つ。わたしが顔を向けると涼宮さんは一度目線を合わせた後にすぐ外を向いてしまう。
 どうやら今日は話したくない気分のようだ。わたしはその意思を汲み取ると身体を戻し期末テストの返却と答え合わせがメインとなる授業の準備をする事にした。


- * -
 今日の授業も終了し、わたしは教室まで出迎えにきた古泉一樹を連れさっさと帰る涼宮さんと、例のお気に入りの毛糸装備を纏い大きく手を振る橘さんを送りだしつつ、慣れ親しんだ当番と共に教室の掃除を開始した。
 机の位置を元に戻し用具を片付けると、わたしはカバンを持ちクラスメートに挨拶して教室を出る。

 と、すれ違いざま耳にした言葉に気になるものがあった。
 どうも涼宮さんが校門前で何かしでかしたらしい。

 下校の際に校門前で起こった事なら古泉一樹が共にいたはずだ。それなのに涼宮さんは一体何をしたのだろうか。更に所々で流れる会話を捉えるに、どうにも涼宮さんは他校の生徒に呼び止められ、その相手に対し容赦なくローキックとクリンチをお見舞いし、古泉一樹と共にその彼を何処かへと連れて行ってしまったと言う。
 何処まで尾鰭が付いた話なのかは解らないが、彼が一緒だったと言うのを信じるのならばとりあえず大事にはならないだろう。何処かが解らない以上わたしにできる事はないし、知っていたとしても他人のゴシップを必要以上にかぎ回るような趣味は持ち合わせていない。それにどうしても知りたかったら当人から聞けばいいのだ。
 自分にそう言い聞かせつつ歩いていると校門前にたどり着く。
 ここで涼宮さんは何をしたのか。騒動を起こしたという事にえも言われぬ胸騒ぎが尾を引くが、わたしは顔を軽くはたいて眼を覚まさせると脳内を蠢く思慮を振り切った。

 明日、聞けばいい。
 そう考えて帰路につこうとした時、ふと校門の脇に立つ光陽園学院でない制服を纏った少女と眼があった。
 いや正確に言うなら眼を合わせられた。
 少女はセミロングの髪と北高制服のスカートをなびかせて近づいてくると、手にしていた白い紙袋を静かに開き、この時期コンビニなどでよく見かける湯気が上がる白い中華まんを差し出すと静かな笑みを浮かべて尋ねてきた。

「こんにちは。お時間ちょっとだけいいかな」
 確かキョンのクラスの委員長で、名は朝倉だったか。わたしは名前を思い出しながら中華まんを受け取り肯定の意をみせた。


- * -
 彼女は改めて朝倉涼子と自分の名を告げ、わたしを尋ねてきた理由を語りだした。
「クラスメートの一人が様子が突然おかしくなってね。もしかしたら、あなたならその理由を知ってるかなって思ったの」
 道すがら二人で中華まんを戴きつつ彼女の話に耳を傾ける。何故わたしがそんな彼女のクラスメートの奇行について理由を知ってなくてはならないのかと考えたが、彼女のクラスといえばキョンのクラスでもあり、彼女が北高祭の一件でわたしがキョンと知り合いだと言う事を覚えていたとするなら一つだけ可能性が生まれてくる。
「まさか……そのおかしくなったクラスメートって、キョンなんですか?」
「ええ。それで国木田くんから聞いてた事を思い出したの。あなたが彼の恋人だってね」
「それは誤解です。確かにわたしは当時他のどの女子より彼に近かったかもしれないし、今でもそうなのかもしれない。でもそれだけです」

 わたしがキョンの恋人にあげられるなど、なんだか背中がむず痒くなってくる。彼とはそういう関係ではない、少なくともキョンがわたしを気の会う友人だと思っている限りはありえない。
 国木田たちが勘違いしているだけの中学時代の他愛ない話ですよと返すと
「あらそうなの? ……だったら彼にもう一回釘を刺しておかなくちゃダメかな」
あごに手を置き伸ばした人差し指を添えながら彼女は何かを呟いた。
 一体何の話かと問い返してみるが、こっちの話だからとあっさり質問を流されてしまう。そして気持ちの切り替えか、彼女は小さく頷くとわたしに会いに来た本題を話し始めた。

「とりあえず彼の事なんだけど……」
 そんな枕詞から語られた内容はわたしを喫驚させるに充分たる内容だった。
 一昨日の昼に出会うなり何故自分がクラスにいるのかと殺意をこめて眼光鋭く睨みつけられながら詰問され、それ以降も彼女を見ると「俺を殺す気は無いのか」と言う感じの内容を聞いてくるという。
 更に一昨日以前は興味が無かったであろう部活とそこの女性部長に突然興味を示し、挙句の果てにはその部長の家まで訪問し自分の活動はどうしたらよいかと話を聞いたと言う。
「そして今日は突然の授業ボイコット。休み時間に友人と話をしていたら突然叫びだしそのまま学校を飛び出して行ったって聞いたわ。
 何ていうかあまりにも突飛過ぎる行動なのよ。まるで一昨日を境に別人になったみたい。
 最初は最近流行の風邪による意識混濁かなって思ってたけど、それにしてもおかしすぎると思わない?」

 全く以て信じられない内容だった。どれ一つとってもわたしの知るキョンが取った行動とは思えない。
 彼女の言葉を流用するならまさに別人の様ではないか。
 キョン、キミは一体何をしているんだ。何がキミをそんな奇行に駆り立てている。
 わたしの思惟は混迷を極め出口なき迷路を放浪する。いや、窓も扉も無い閉鎖空間に囚われた気分だ。
 無明の闇で閉ざされた不可視の領域を先を照らす光明も道を示す指針も無くただ彷徨する思考。
 エラーを起こし機能停止してしまったアンドロイドのように立ち尽くすわたしを見て何か告げようと脳を回転させて思い出したのかは解らないが、朝倉涼子はそんなわたしに更なる情報を提示してきた。

「あ、そういえばもう一つ彼の奇行があったわ。確か自分のクラスにはわたしじゃなく涼宮ハルヒって人がいるはずだって言って探してた。
 あなた知ってる? どうも光陽園学院の生徒らしいんだけど」

 涼宮……ハルヒ、ですって?
 突然の言葉に頭の中が真っ白になり、世界が激しくゆがんだ。
 何故そこで涼宮さんの名前が現れるのか。何故キョンが涼宮さんの事を探さなくてはならないのか。
 スカートのポケットから手探りで携帯電話を取り出したのは殆ど無意識的な行動だった。既にわたしの脳は路傍の石よりも働いておらず、数多のシナプスは想定外の処理にオーバーヒートを警告していた。

 携帯電話のアドレス帳からキョンの番号を検索し電話をかける。
 とにかく一秒でも早くキョンに話を聞きたい。私の全身はただそれだけの為に行動していた。
 だがそんな焦燥するわたしを嘲笑うかの如く、電話は相手先をコールする事すらせずにディスプレイにただ一言『圏外です』と表示し、携帯電話の電波が彼の元どころか何処へも届かない事を告げてくるのみだった。
 どうする、彼の家へ直接押し掛けるか。いやキョンは授業をボイコットして何処かへ行ったって話だ。
 そもそもキョンは一体何処へ? キョンは何をしに向かった? 散らばったまま組みあがる気配の無いジグソーパズルは、だが唐突な閃きで一気に構成される。

 さっき校門前で流れていた、明日聞いてみようと思っていた内容。
『どうにも涼宮さんは他校の生徒に呼び止められ、その相手に対し容赦なくローキックとクリンチをお見舞いし、古泉一樹と共にその彼を何処かへと連れて行ってしまったと言う』

「……まさか。ソレがキミなのか、キョン」
 まるで正解だと言わんばかりに、圏外を示していたはずの携帯電話が着信を知らせるメロディを奏でだす。
 この着信音は橘さんかと認識し、ディスプレイで彼女の名前とアンテナ状態は最良であると示す電波状況の印に戸惑ったまま電話を取った。
『佐々木さん、スクープです! 大事件なのです!』
「どうしたの橘さん。そんな大事件だなんて、今のわたしにはキョ……」
 呪詛を吐くかのように淡々と紡ぎ出す言葉を完全に無視しながら、電話の向こうで興奮しているのかいつもより高い声が告げてきた。
『あたし、見ちゃったんです! 涼宮さんとキョンさんが一緒にいるの!』

「……え?」
 あまりに突飛無い内容に再度わたしはフリーズする。橘さんの言葉が脳に浸透しようやく理解すると、わたしは慌てて聞き返した。
「涼宮さんと……キョンだって!? 橘さん、それはいつの話!?」
『今、たった今です! たった今喫茶店から出てくるのを見たんです。
 最初涼宮さんが飛び出してきてタクシーを拾って、その後に古泉さんと彼が出てきて、そのまま三人でタクシーに乗り込むと何処かへ行っちゃったんです。
 彼ったら涼宮さんたちとも知り合いだったんですか? でもそれにしては何か様子が……』

「橘さん、その喫茶店の場所は!」
 返って来た喫茶店名と場所には覚えがあった。学院から近い場所にある為に生徒達によく利用される場所で、前に何度か橘さんやキョンと行った事もあり、帰路についていたわたし達が今立っている場所からでもそう遠くはない。
「橘さん、今からすぐに向かうからそこにいて!」
『あ、はい。わかり──』

 ぱん。
 拍手のような軽い音が耳に届くと共に電話が切れる。何事かと携帯を見るとディスプレイには何も写っておらず、通話どころか電源自体が切れてしまっていた。
 電源ボタンを押して起動させようとするも携帯は全く動作せずただ沈黙を続けてくる。
 さっきの電波状況といい携帯電話が壊れていたのだろうか、だがそれにしてもこのタイミングで壊れなくても。
 やり場の無い怒りを携帯にぶつけつつポケットにしまうと同時に一台の車がすぐそばに止まる。そして後部座席ドアを開けると運転手が振り向きながら聞いてきた。
「何処までだい?」
 その黒塗りの車は屋根に空車を表すライトを光らせ、そしてボディには白で所属会社名がかかれており、何処からどう見てもこの車が一般乗用旅客運送を営む自動車事業、つまりタクシーである事を示していた。

 わたしは朝倉涼子に振り向き尋ねるが彼女は首を振る。
 何故止まったのかは解らないがとりあえず急いでいる身としては丁度良い。財布の中身を思い出しつつわたしはタクシーへと乗り込むと先ほど橘さんが告げてきた喫茶店を指定した。
「待って、わたしも乗る。彼の所へ向かうのよね」
 わたしを奥へ詰め込ませ、朝倉涼子も乗り合わせてくる。しかし運転手は朝倉涼子を乗せ終えた後も扉を開けたままで一向に発進しようとしなかった。
 二人で疑問に思いつつも彼女は自分で扉を閉め、わたしは運転手に出してもらうよう急かすと煮え切らない返事と共に運転手はタクシーを発進させた。

「どうしたの、運転手さん」
 ぐったりと頭をたれて下を向くわたしをよそに、流石に運転手の奇妙な行動が気になったのか朝倉涼子が尋ねると、運転手は後部ドアがちゃんと閉まっているか手元で確認しつつ逆に聞き返してきた。
「いやね、もう一人さんは良かったのかいって思ってね?」
「もう一人?」
「ああ、車を止めた女の子だよ。一緒にいただろ、ボリュームのある黒髪をした光陽園の生徒と。すぐに居なくなったみたいだけど」
 その言葉にわたしは跳ねるように首を起こすと後ろを振り向き、車に乗り込んだ場所を確認する。

「──────、──」

 そこに立っていたあの形容しがたき黒の存在は、その姿を小さくしながらも相変わらず異質な雰囲気のまま小さく何かを呟いていた。


- * -
「橘さん乗ってっ!」
 タクシーで喫茶店の前に到着し、そこで携帯を握り締めながらつま先で地面を叩きつつ待っている橘さんに呼びかけた。同時に朝倉涼子が車から降りるとドアのそばに立ち彼女が乗り込むのを待つ。
「え? あ、はいっ!」
 橘さんが走って近づき、そのまま後部座席へと乗り込んでくる。最後にもう一度朝倉涼子が乗り込んだのを確認しつつ、わたしは橘さんに何よりも聞かねばならない事を問い質した。
「それでキョンたちはどっちへ向かった!?」
「え、えっと、あっちです。で、そこの角を曲がっていきました」
「そう。だったら可能性があるのはやっぱりあそこね」
「ええ」
 ここに来るまでに二人で話し合い考えていた。一昨日からキョンが行ったおかしな行動、それは大きく分けると二つにまとめられる。
 一つは涼宮さんを探すという行為。そしてもう一つは突然文芸部に興味を持ち出したという事だ。
「運転手さん、このまま北高へ向かってください」
 おそらくキョンはあそこにいるはずだ。わたしが北高祭の時に上る事ができなかった、あの階段の先に。

 タクシーは北高へ続く坂道に入り、後ろに三人も座っているからかややアクセルを開き速度を上げはじめる。
そのままカーブへ差し掛かったその時、激しい音と共に突然フロントガラスが真っ白になったかと思うと車体が大きく弾み、通常走行ではありえないような横への遠心力がわたし達に襲い掛かった。
 左へと身体が流された直後、全身に強く響く重低音と金属がひしゃげる高音のノイズと共に前方に向かって吹き飛ばされるような勢いが身体を襲い、わたしは運転席のシートへと激しく身体を打ちつけた。

 何が起こったんだ。一体、何が。
 衝撃音の連続で耳鳴りが轟き外の音が聞こえない。激しい衝撃の影響で身体が悲鳴を上げている。目を開いても世界が回転している感覚が視界として飛び込んでくる。
 わたしはそれでも何とか右手を伸ばして後部ドアに手をかけると、そのまま押し開いて外界の空気を取り込んだ。
 後部シートから外へ身体を押し出すように転がり出る。何とか立ち上がり朦朧とした意識を取り戻して自分が乗っていたタクシーを見るとフロントガラスは砕け散り、カーブの反対車線を超えガードレールをなぎ倒し、歩道の先にある山間の壁に頭から激突している状態だった。
 運転手はエアバッグに飲み込まれて姿が見えない。後部の二人は大丈夫かと思い視線を運転席から外したところで、

「…………っ!」

その視界の隅に、進行方向だった坂道の上で立つ無粋な男と異質な存在を捉えてしまった。


- * -
「何をした……何を考えている! お前たちは一体何なんだ!」
「ウイルスさ。この世界に存在し得ない存在、それが僕らだ」
 男が目に見えて嘲笑を浮かべてくる。何の話だ。いやもうあんな存在など知った事か。
 わたしは彼らの事を相手にせず車内を覗き込むと二人に呼びかけ無事を確認する。
「だ、大丈夫、だと思う……」
「わたしも、多分、大丈夫」
 橘さんは後部シートに倒れこみながら息を整え、朝倉涼子は反対のドアを開けて外に出てくる。運転手も動いているようで命に別状は無いようだった。
「ずいぶん余裕じゃないか。時間を大切にしろとこの時代の人間は習わないものなのか? もうすぐあいつが考え抜いた末に規定既定通りキーを押す。そうすればこの電気羊の世界は終わりだというのに」

 ゴルフボールぐらいの大きさの玉を手玉にして遊びつつ男が更に告げてくる。
 あいつだと? あいつというのはやはり。
「キョンの事か。言え、お前たちは何が目的なんだ!」
 いい加減に我慢の限界だ。わたしは男に飛び掛らん勢いで走り出す。あの玉を投げつけフロントガラスを叩き割り、道路に散りばめられた釘やらガラスやらが撒菱状態となりタイヤをバーストさせたのだろう。
 どう考えても事故を狙ったとしか思えない上にキョンの方にまで何か手を回しているとしり、それでも我慢できるほどわたしは聖人君子ではない。

「今はまだ禁則事項だ。僕が説明しなくてもいずれあんたにも解る。まずはこの世界の終焉を──」
 男の御託を無視し、走り寄る勢いで相手を倒してやろうと服に手を伸ばし掴みかかろうとする。だが後数ミリで服を取れるかと思った瞬間、
「──感じようじゃないか」
男の言葉と共にわたしの動きが、視界範囲のものが、そして森羅万象が完全に停止した。


- * -
「世界の停止を確認。誤差、問題共になしだ」
 思考する以外何もできないわたしの目の前で相変わらず立ち続ける男はそう告げると髪をかき上げてから歩き始めた。そのまま異質なる黒の存在に近づいて行くとなにやら呟き指示を出す。
 その存在が納得したのかは知らないが、ゆっくりとこちらを向いて瞬き一つみせてきたかと思えばわたしはいきなり全身を固く止めていた力から解放された。
 服を掴もうと伸ばしていた手は空を切り、突然走りを再開した身体に思考が追いつかず、わたしは数歩慣性で進むと足を取られ、そのまま身体の向きが反転し尻餅をつく形で地面に身体を打ちつけた。

「バグった人形が作り出した虚構、注目すべき事項が何一つ存在しない無為な時間。それがこの世界だ」
 男は先ほどから手にしたボールをお手玉のように上に軽く放り上げつつ、ゆっくりとわたしの方に向かって歩いてくる。
 男の言葉は全く以って意味不明で、普通に取れば精神に支障をきたした者の戯言と認識するところだろう。
 だがこの連中がそんな生易しい存在ではないのは既に嫌と言うほど思い知らされている。

「何の事を言っているんだ」
「あんたに少しだけ種明かししてやってんのさ。
 一年前の十二月十八日から一昨日までの一年間、あんたが体験したと思っているその時間の記憶は、全て第三者によって改変された偽りの記憶でしかない。
 あんたが実際に自ら体験したのはこの二日間だけで、それまでの一年間はこの世界配置ならこの人間はこう過ごしたであろうという計算の元に生み出された虚構設定なのさ。
 ま、改変した奴にしてみてもアイツがあんたと思った以上に親睦を深めてしまったのは想定外だっただろうけどな」

 モザイクだらけの会話だが、その改変した第三者以外が誰の事を指して言っているのかは解る。だが彼の言い分を正しく理解するなら、世界にとっての正しい時間軸は別にあり、その正しい時間軸を辿った歴史では僕とキョンが親睦を深めていない関係にある、そう言っているみたいに聞こえてくる。
「どちらが正しい世界だとかには興味も意味もない。僕にとって重要なのはその歴史が僕にとっての規定事項だという事、ただそれだけだ」
 男は手にしていたボールを軽くわたしに向かって放ってくる。コレがタクシーに投げつけられたボールなのかと思わず手を伸ばして受け取ってしまった途端、ボールは一瞬光ったかと思うとわたしの中に溶け込むように吸収されてしまった。

「そして僕の役目は世界修正に先駆けあんたに本当の時間を返してやる事だ。しかも今、このタイミングで。
 この静止した時間ならばあんたの心がいくら揺れ動こうとも、能力者がそれを把握することはできないからな」
 直後、身に覚えの無い記憶が脳内を駆け巡りわたしの情報処理能力は一気にオーバーヒートを起こす。それでもこの一年間の本当の記憶が今ある記憶を消す事も無く徐々にとわたしの中へと入ってきた。
 光陽園学院は進学校などでは無くお嬢様の通う女子高である事、わたしは市外の有名私立進学校へと進んだ事、キョンとはそれ以降疎遠と
なってしまっていた事。

 そして何より、北高へ進学した涼宮さんがキョンと組み、何やら楽しげな活動を行っているという事。

「何だいこの記憶は。僕の知るこの世界との充足感の落差は」
 これが本当の時間だというのか。僕は長い夢を見ていたと言う事なのか。
 進学校のカリキュラムについていく為に塾通い勤勉し、取り立てて親睦を深めた者がいる訳でもなく日々淡々と起伏少ない人生を消費する。
 それが彼から渡されたわたしの一年間の記憶だった。そしてそこには、卒業式以後のわたしの記憶には、彼の姿は一度として映っていなかった。
「ふざけるな。こんな世界の記憶なんて僕は認めない」
「それはあんたが決める事じゃない。僕らの歴史が決める事だ」
 男に言い切られた瞬間、わたしは全身の力が抜け落ちていくのを感じつつ無意識に乾いた笑みを溢していた。
「それこそ知った事か。認めないといったら認めないんだ。そうさ、認めるもんか……僕の人生から彼がいないだけでこんなにも、こんなにも……くっははははっ!」

 これが世界の現実ならば、わたしは絵空事の麻薬に酔いしれていたクラウンだったと言う事になる。
 あまりにも唐突に訪れた冷酷な世界。
 それはキョンというピニオン、空を飛ぶのに必要な風切羽をもぎ取られ永遠に飛び立てず地を這いずり回る鳥の世界。
 認めたくないのに、だがどこかで認めてしまっている。
 わたしは両手で目を被いつつ天を仰ぐと、静止した時の中でただ狂気染みた笑いを響かせ続ける事だけしかできなかった。


- * -
「気は済んだか」
 全身に蠢いていた感情を出し切り自虐的な嘲笑すら零れなくなった頃、男が面倒臭そうにただ一言だけ投げかけてきた。
「キミは……キミたちは一体何者なんだ。一体何をしようとしているんだ」
「禁則事項だ。それと僕たちにはまだやるべき既定事項が残ってる。あんたにも付き合ってもらう」
 質問を一蹴すると男は存在へ指示を出す。存在はまるで滑るかのように身体を殆ど揺らす事無くタクシーの方へと向かっていった。
 そして車内から外へ脱出し立ち上がろうとした所で静止している朝倉涼子の側に近づくと、ゆっくり手を伸ばして彼女の胸に手を置く。
 何をするつもりかと疲弊した精神でおぼろげに見つめていると、その存在はまるで立体映像に手を差し伸べるが如く、自分の手を彼女の胸へ溶け込むように挿し込んだ。
「────────閾値────改竄」
 ポツリと呟いた瞬間、朝倉涼子の身体が電気ショックを与えたみたいに大きく震え、力なく手を差し込んでいた存在の方へと倒れこむ。
 その存在は空いた手を静かに横へ伸ばして彼女の身体を受け止めると、そのまま彼女を肩に抱えあげて戻ってきた。

「飛ぶから立て。酔いたくなければ目を瞑ってるんだな」
 何が飛んで酔うのか全く説明が無いまま、男と朝倉涼子を抱えた存在は私の側でただじっと立ち尽くす。半ば自暴自棄になっている状態のわたしは何とか足に力を入れるとふら付きながらもゆっくり立ち上がり目を閉じた。
 直後、足元から地面の感覚が消失する。同時に強烈な重力の捩れがわたしを四方八方から襲いだした。
 三半規管が警告を鳴らし、何事かと垂れていた頭を持ち上げ目を開こうとするが、それより先に男の手が頭に置かれて首を上げることを許さない。
「目を開けるな。時の狭間なんて見ても気分が不快になるだけだ」
 既に最低の気分を味わっているのに今以上不快に陥る事などあるのだろうか、そう思いながらも素直に従う。
 遊園地の遠心力絶叫マシンが暴走したかのよな縦横無尽な圧力を感じ、そろそろ目を瞑っていても不快感が限界に突入するかといったところで、ふと突然に足元に地面の感覚が戻ってきた。併せて男の手が頭からどけられる。
 何が起こっていたのかは解らないがどうやら終了したらしい。わたしは改めて首を上げて目を開き状況を確認した。

 肌寒さと周りの暗さが夜である事を告げてくる。目線をやや上にあげると、星空と民家の間に黒い影として数階建ての建物の壁が伺えた。
 彼らと本格的に関わったあの日に振り返り見た、この建物の夕闇に染まる姿を思い出す。
「あれは北高? 何故……」
 とそこまで呟いて言葉を止める。何故北高で、しかも夜なのか。
 疑問は浮かぶが聞いたところで今までと同じく答えは返ってこないだろう。
 その証拠に男と存在はわたしを無視して動いている。何をしているのかと視線を送ると、あの存在が一緒に連れてきた朝倉涼子を肩からおろし壁に寄りかかる状態で座らせている所だった。
 男が倒れないよう身体を直し、最後に夜光で鈍色に光る物体を彼女の手元に置く。

「そろそろ来客が訪れるな。フィールド展開しろ」
 朝倉涼子をその場において立ち上がると、その存在が中空を見つめて唇だけで音無き声を呟く。
 風のような軽い抵抗が身体を通り抜ける感覚を感じたかと思うと、存在を中心に発生した球体にわたしたちは飲み込まれていた。
「あんたは今から始まる三文芝居の唯一の観客なのさ」
「三文芝居?」
 状況には追いつけず二重の記憶には翻弄され精神がかなり磨耗していたわたしは疲労感を隠すことも無く男を見返す。
 と、男はいつもの様な何事にも興味ないような雰囲気ではなく、軽い苛立ちと怒りを含んだ微妙な表情を浮かべていた。

「ああ、三文芝居なんだ。あんた以外は全てこのくだらない演劇の配役でしかない。
 僕もこいつも朝倉涼子も、そしてあいつらも。あんただけがこの舞台で唯一イレギュラーな存在なのさ」
 男が更に嫌悪感を見せつつあごで自分の視界を指す。それに習いわたしも首をそちらへ向けると、わたしたちの前、北高の正門から影となる曲がり角で様子を伺う二つの人影が目に付いた。
 彼は誰時より暗き時間で中々判別し辛いが一人は教師のようなスーツ姿の成人女性のようだ。
 そしてもう一人はというと、
「……キョン? 何でキョンが」
 こちらも暗くて顔は見えないのだが、シルエットだけで充分彼だと判断できる。星空の元で共に歩き、そして何度も見送ったあの姿だけは見間違えようがない。
 一体何をしているのかと足を踏み出し声をかけようとするが、フィールドと呼ばれる領域に阻まれてしまいそれは成せなかった。

「このフィールドは外部から認識できない。あんたは観客だと言ったはずだ。観客は芝居に参加できない、大人しく見物しているものだ」
 腕組みをして立ち尽くす男のつま先が微妙に上下している。
 わたしに意味深に接触し、事故を起こしても平然としていた人間にしては今の姿は何処か感情的で、今までで一番人間味を感じさせていた。
「────違う、彼──間違い?」
 それまで黙っていたその存在が言葉を発する。男は足を止めて溜め息をつくと首を向けずに答えてやった。
「間違ってるのはおまえだ。アイツが正解なんだよ」
「────────そう」

 彼らが何を話しているのか、これから一体何が始まるのか。
 そう思った瞬間、わたしたちを取り囲むフィールドが突然衝撃音と供に虹色に輝きだした。
 キョンたちが見つめる先、北高の正門前から生じている何か物凄い力がこのフィールドに容赦なく襲い掛かっている。
 何故だろう。その力は一見不可視だと言うのに、わたしにはその力の流れが手に取るように感じられた。

「これが時空改変能力……なるほど、誰も彼もが躍起になる訳だ」
「────────とても……苦い」
 男と存在もこの力を感じ取れているのか各々感想を漏らす。片方は本当に感想なのかどうか今一つ自信がないがわたしが気にする事でもないだろう。
 やがて力の奔流が治まると、そばにいた存在は朝倉涼子の傍を離れてわたしたちの後ろに立った。
 男にフィールドと称された結界から外れた朝倉涼子はゆっくりと頭を抱えながら覚醒しだす。
 座り込んだまま辺りを見回し自分が置かれた状況を確認するも、事故を起こしたタクシーから外に出たかと思えば夜の母校前という現状に脳の理解が追いついてない、そんな風に感じ取れた。
 立ち上がろうと身体を起こした時に手の傍にあったナイフに気づき拾い上げるが、一体これは何を意味しているのかとやはり頭を捻っているのが伺える。

「朝倉に設定されていた人間が持っている倫理の閾値を限界まで下げた。今のあいつは目的の為なら手段を選ばない兇刃そのものだ」
 男が説明するもわたしの耳はそれをただの音としてしか認識していない。その時のわたしはキョンたちが校門前の
街灯下で立つ少女に近づき何かを話している様子に夢中だったからだ。
 距離はあるが街灯の明かりで姿は見える。キョンたちが話す相手は北高祭の時にわたしの前の席でおでんを食べ、朝倉涼子が保健室に運び込まれた時にお見舞いに来た、あの眼鏡をかけたショートヘアの少女だった。

「……あれ、長門さん?」
 朝倉涼子もキョンたちの事に気がついたらしい。この不可解な状況下で知り合いを発見できたのがよほど嬉しかったのか、満面の笑みを浮かべつつふら付く足取りで少女たちの方へと向かっていく。
「良かった、長門さん、あなたがいて。あなたがいてくれれば、あなただけでもいれば、わたしは…………え?」
と、覚束無い足取りを見せていた朝倉涼子が不意に止まる。何事かとその視線の先、キョンたちの方へと視線を戻せば、キョンが手にしていたモノを少女に向けて構えている所だった。
 実物をこの目で見た事はないので確実とは言えないが、あのフォルム、そして少女の激しい怯えようから考えるに、やはりあれはこの国の大多数が所持を禁じられている武器、銃なのだろう。

 だが何故だ。

「何故キミがそんなモノを持っている。何故それを人になんか向けている。やめろキョン……キミは、キミは一体何をするつもりなんだ!」
 思わず駆け出すもすぐにフィールドの壁にぶつかり近づく事ができない。
 苛立ちながらこの壁を作っている存在へ苦情を告げようとして、それより先にフィールド外にいた朝倉涼子が動き出した。

「ちょっと……長門さんになにしてるのよ。彼女を傷つけるつもりなの?
 よりにもよってあなたが?
 彼女は、こんなにも。やっと、ここまで」

 わたしと同じ世界を見つめつつ捉え方が違ったもう一人の観客は、手に小道具をしっかりと持ち街灯が照らすステージへと走り出す。
「させない、させないさせないさせないさせない彼女を苦しませる事なんて誰にも絶対にさせないっ!」
「な、ダメだ! やめろ朝倉涼子! キョン逃げろ! 逃げるんだ、逃げて────っ!」
 フィールドを叩きつつわたしはあらん限りの声で叫ぶ。
 外界に届く事無きわたしの心からの訴えに、だがそこでキョンと共に行動し後ろに付き従っていたスーツの女性が幸運にもこちらへと振り向いた。
 わたしの訴えは見えなくとも、朝倉涼子の姿は捉えられるはずだ。距離もまだある。
「頼む! 彼女を、朝倉さんを止めてくれ!」
 必死の願いをその女性に向けるが、しかし女性は朝倉涼子とその手にしたモノを確認した上で、あえて目を瞑り首を振ると、伸ばした手をそのまま戻して握りしめ、踏み出しかけた足を踏みとどまらせ、信じられない事に朝倉涼子がキョンへ向かうのを完全に黙認した。
 一縷の希望があっさりと絶たれた事にわたしが何故と思う間もなく、朝倉涼子は上体をやや落とすとそれまでのスピードに乗せて後ろから躊躇う事無くキョンへと手にしたモノごと突撃していった。

 ドンッという音が響いた気がする。
 実際は気のせいなのだろうが、わたしはその瞬間確かにその音を聞いた。
 キョンがこの世界から否定される音を。

「キョ──────────ンッ!!」
 朝倉涼子の動きにあわせキョンがゆっくりと崩れ落ちる。
 あらん限りの声で叫び、渾身の力で両拳をフィールドに打ち付けて突破しようと試みるが、わたしの思いは障壁に傷一つつける事すらできない。
 すぐさまこのフィールドを生み出しているのが誰だったか思い出し、わたしは黒の領域へと掴みかかった。
「フィールドを解けっ! わたしを、今すぐあそこへ向かわせろっ!」
「それはあんたの役割じゃない」
 即座に男から否定の言葉が出される。わたしは男に拳を放つが、男はまるで何処を狙ってパンチしたのか知っていたかの如く平然と自分の手で拳を受け止め、さらにもう片方の手で手首を掴むと強く握り締めてきた。
「くうっ! こ、この……」
「僕を殴る暇があるならあっちを見ろ。あんたの望んだ俳優たちの登場だ」

 男の言葉に従い再度キョンたちの方を向く。
 飛び込んできた風景は、何処から現れたのか先ほどまでその場にいなかった三つの人影が兇刃朝倉からキョンの事を守っている所だった。
 だがその光景を目にし、わたしは思わず「ええ?」と言った間抜けな声を上げてしまう。
 あのふざけた女性と共に倒れたキョンに駆け寄った少女はまだいいとしよう。問題は残りの二人だ。
 朝倉涼子の兇刃を素手で握り止めている少女は顔に眼鏡をかけていないという違いはあるものの、どう見ても街灯の下で怯えているショートヘアの少女と同じ姿だし、そしてなにより倒れたキョンの傍で銃を拾い立つ防寒を主としたラフな格好をしているその男は、やはりどう見てもキョン当人にしか見えなかった。

 既にわたしの中の疑問符は完売状態で、この状況には声も出せず立ち尽くす。
 もう何が起こっても驚けやしないなと考えた直後、わたしはその考えをあっさりと撤回する事になった。
 朝倉涼子と対峙していた少女が小さく動いた途端、その手に握り締めていたナイフが煌めきながら光の粒子に変換されていく。いや、ナイフだけではなく朝倉涼子もまた足元から粒子になり始め、数秒後には完全に消失してしまっていた。
 ほぼ同時に、倒れたキョンに泣きついていただろう少女もキョンに被さったまま動きが無くなってしまう。どうやらスーツ女が少女に対し気絶させたか何かを行ったようだ。

 遠めで何が起こっているのか完全に把握できず、またキョンの元へと走りよれないこの現状がもどかしい。
『観客』とはよく称したもので、つまりはわたしだけがこのイベントに対し何一つとして関与できない傍観者であると男は揶揄していたのだ。

「人間は与えられた事象が自分の理解の範疇を超えた時、何もできない存在だと思っていた」
 眼鏡のない少女がキョンから銃を受け取り同じ姿をした少女へと撃ち放つ。そのあまりに現実離れした光景に、だがわたしはもう驚かない。
 どんなに驚愕すべき事象が起ころうと、観客である以上わたしには単なる映画や夢と大差ないからだ。
「考えを改めるよ。人間はどのような状況に陥ろうと思考する事だけはできる。思考し、常に何かを選択する。そういう存在なんだ」
 わたしはキョンたちを見つめたまま男に尋ねる。わたしがここにいてできる事はない。

「キミたちはいつになったら僕の事を解放してくれるんだい」
「あいつらが再改変した後だ。そうでないと僕たちは元の時間に戻れない」
「こう見えて門限がうるさくてね。できれば早めにお願いしたいものだ」
 男が全てを語る気がない事を理解したので返答を軽く流す。わたしの中の何かが麻痺してしまったのか、キョンが無事っぽい雰囲気に冷静さを取り戻したのか、先ほどまでと違って展開される状況を素直に脳が受信する。
 立っているキョンが気絶した栗色髪の少女を背負い、ショートヘアの少女とスーツの女性が傍に寄り添った。
 と、スーツ姿の女性が控えめにこちらへと顔をむけてくると軽く会釈してくる。それにあわせ後ろから人間味あふれる舌打ちが聞こえてきた。
 男の知り合いかと考え、ふとそこに違和感を感じる。
「なぜ彼女はこっちに挨拶を? こっちの姿は見えていない、そうじゃなかったのかい」
「簡単さ。相手からはこちらは見えてない、だがここに僕たちがいると最初から知っているのなら挨拶はできる。つまりそういう事だ」
 つまりあのスーツ女もこの男の同類、この男がわたしの担当、あの女がキョン担当と言う事なのだろう。何か途轍もない事にわたしもキョンも巻き込まれているのは確実であり、しかもキョンの方はある程度事情を知っているようだ。
 今度彼に問い詰めてみようかと思いもしたが、どうせコンタクトを取ろうとしてもこの男の仲間連中に阻止されるのがオチだろう。

「茶番は終わりだな。可視可聴ゼロの最大展開で構わない、再改変の影響を受けないようにするんだ」
「────────」
 不可侵の障壁が輝き、直後に闇が空間を支配する。目を開けている筈なのに何一つ目視できない。
 光すら束縛するブラックホールとはこのようなものだろうか、数分いるだけで精神に支障をきたしそうな文字通り無の空間だった。
 すぐ後ろにいる筈の男の気配すら感じ取れない。音の無い世界でわたしが生きている証となる体内の音、ただそれだけが自分の中で響いている。
 微光も存在が許されぬこの空間ではどんなに目が闇に慣れようとも何も捉える事ができない。
 自分が何処に存在しているのか、そもそも自分が本当に何処かに存在しているのかすら疑いたくなってくる。
 負の思考は更なる負の思考へと繋がり、ほんの僅かだった焦燥感は二次曲線を描くように膨れ上がる。
 常人が狂人に変質する感覚、心身ともにこれ以上ここにいるのは危険だと警告を投げてくる。頑なに固く閉じた口を少しでも開けたならばたちどころに悲痛と狂乱の叫びを上げてしまう事だろう。
 そしてギリギリまで耐えていた壁が決壊して何かが弾け出しそうになった、その瞬間。

 気がつけば足が地面を踏みしめている。
 わたしは自分がいつの間にか夕陽落ちた誰そ彼時の空を何も考えずにただぼうと眺めている事に気が付いた。


- * -


「……結局は未来人たるキミが望んだ通り、いやここはキミに習って既定通りと言うべきか。
 僕は涼宮さんやキョンと相反する位置に立ち、その意味も正体も解らない力の争奪戦に巻き込まれてしまった、と言う訳だ」

 コーヒーカップを皿に置き嘆息づく。わたしの溢した愚痴に満足したのか、藤原は邪心を感じるには些か稚拙なそんなちぐはぐな笑みを浮かべていた。
「当然だ。僕たちの知る既に定められた事項を現地人になぞらせるのが僕の役目なんだからな」
「先ほど語っていた誘拐劇とやらも、そしてこうして今残ってキョンを牽制したのも既定事項なのかい?」
「言う必要は無い」
「キミ以外の未来部員が僕に関わってきている可能性は?」
「言う必要は無い。だが、あんたは今僕たちの監視下にある。それが全てだ」
 なるほど。今の時点では藤原のバックは僕を捕まえておく必要があると言う訳だ。いずれ取り合う力を受ける器とするためか、それとも単なる捨て駒として使うためなのかは解らないが。
 だが藤原、僕は一応キミを友人と認識している。だからこれだけはキミに言っておいてあげよう。

「何だ」
「キミの既定する未来は絶対ではない。キョン側にいる朝比奈さんの未来もまた然り。キミたちがこうして過去を訪れ奔走しているのが何よりの証拠だ。
 もっとも恐れるべき存在は確かにキミだが、だからといって対抗できない存在という訳でもない。その意味についてキミはもっと考えるべきだ、と」
「僕の知る歴史の一文に抗うというのか? はっ、僕も甘く見られたものだな」
 言葉とは裏腹に藤原は本当に楽しそうに笑い出す。
「だがその事象すらも僕にとっては既定かもしれない。あんたは常にそのジレンマに悩まされるのさ。あんたには未来日記を知り得る術が無いのだからな」
 そうだね。でも。

「藤原、キミは何故七夕飾りの短冊に願い事を書くか知っているかい?」
「は? 何の話だ?」
 不意な質問に藤原にしては珍しくキョトンとした顔をする。その姿に少しだけ口を緩めると、私はなんでもないと軽く流した。

「さてキミはこれからどうする? このまま僕とてデート気分でも味わうつもりなのかな」
「僕の活動予定にそんな下らない内容は当然無い。だから帰る。勝手にゆっくりしていればいい」
 そうかいと相槌を打ち、席を立つ藤原に軽く手を降ると彼を見送りだす。そのままゆっくりと手を上にあげて身体を伸ばし、ゆっくりと背もたれの上に手を置くと

「飛びます。眼を閉じて」

背中合わせの後部座席からわたしの手を取る彼女に従い、わたしは静かに眼を閉じた。


- * -


 わたしは自分がいつの間にか夕陽落ちた誰そ彼時の空を何も考えずにただぼうと眺めている事に気が付いた。
 世界は相変わらずそのままの世界を形成した状態で描かれている。
 全ては逢魔が時の見せた幻だったのだろうか。

 北高へと向かう長く気だるい坂道、夢の終焉となった場所。あの男も天蓋領域も傍にはいない。
 山間の壁に突撃したタクシーなどは何処にも存在せず、代わりにモスグリーンのバンが止まっているだけだ。
 自分の格好に視線を落とせば黒を基調とした光陽園学院のブレザー姿ではなく、市外にある進学校の特徴あるセーラー服を纏っている。カバンも中の教材もただ一つだけの例外を除いて全て進学校に合わせたものだ。
 その唯一つの例外である手帳に挟まっているシールコーティングされた栞を取り出す。

 白い折り紙で作られたその栞は、あの七夕の時にキョンから貰い受けた嘆願成就の短冊で作ったもの。
 何も願わない事こそがわたしの願いと考え、白紙であり続ける事を望みコーティングしたその栞は、だがキョンの家で七夕飾りの手伝い自体を行っていないこの世界では在らざる物のはずであった。

 どうして。わたしは短冊に疑問をぶつけつつ裏返す。
 すると、自分の知っている短冊との相違点がそこにはあった。
 何も望まぬ故に白紙を保っていたはずの短冊に、誰でもない自分自身の筆跡で、そこには一言だけ書かれていた。


 ── cruel comin' ──『クルエル カミ』と。


 クルエルカミ。意訳するなら『残酷とは、前触れもなく訪れる』といった感じだろうか。
 次々と世界が悪化していく今のわたしにとってこれほど相応しい言葉もない。
 彼らはこの結果をわたしに齎す存在なのだと最初から伝えていたのだ。自分たちは残酷を司る《狂神》なのだと。
 だがそれが何故この存在しないはずの短冊に、しかもわたし自身の文字で書かれているのか。
 わたしには永遠に紐解けないであろう問題定義、それを記した短冊をしまいこむと、ただじっと空を仰いだ。

 そういえばこの世界での橘さんとかはいったい何処で何をしているのだろう。
 この世界の記憶の中で橘さんや古泉と言う人物に出会った事は一度も無い。願わくば、彼女たちぐらいはわたしが知る姿のままでいてもらいたいものだ。
 そんな事を考えつつ空から地上に視線を戻したわたしは、何気に視界に入ったバンの後からすっと現れたツインテールの少女と目が合った。

「……え?」
 現れた少女が誰なのか認識した途端、その人物の突然の登板にわたしは驚きの念を禁じ得なかった。
 少女は左右から車両がやってこない事を確認すると道路を渡ってわたしに向かってくる。
 そしてわたしの前に立つと軽く頭を下げ、光陽園学院の教室でいつもわたしに向けられていた朗らかな笑顔に待望しつづけた感動とあの存在たちに似た昏い深みを乗せて挨拶してきた。
「初めまして、佐々木さん」
 彼女の言うとおり、この世界では初対面のはずなのに。

- * -
「教えてもらえるかしら。あなたはわたしを知っているのね?」
「もちろんです」
 好感度を振りまく笑顔で橘さんが答える。これはどういう事なのか。まさか、彼女は。

「そう。実はわたしもあなたの事なら多少なりとも知っているわ。言わせてもらっていいかしら? 橘京子さん」
 わたしの言葉に橘さんは吃驚した表情を見せる。どうやらわたしが彼女の事を知っていたのは彼女にとって大きな予想外だったようだ。
 くっくっと小さく笑いつつわたしは更に饒舌に語る。

「わたしの知るあなたはこんな人。たまたま同じ学び舎、同じクラスに席を置き、クラス会議でのわたしの発言であなたはわたしに興味を持った。
 クラス委員を務め、みんなをまとめるよう快活に動き回り、風変わりな級友たちをまとめあげる文字通りクラスの中心人物として……」
 わたしは静かに、でもわたし自身の熱意を込めて橘さんについて思い出せる限りの事を彼女自身に伝えていた。
 夏祭りで二人で浴衣を着て歩いた事や、音展祭でのがんばりっぷり、テスト前の勉強会や特になんでもない日に街へと繰り出しぶらぶらと遊びまわった事など、とにかく思い出した端からの記憶を全部話していった。
 それはまるで何かを確認する儀式であるかのように。

 どれくらい経っただろう、わたしの話を黙って聞いていた橘さんは、だがその表情だけはわずかに翳らせていた。
「……と、これがわたしの知る橘さんという人物像とプロフィール。違ったかしら?」
 覚えている限りの全てを話し終え、わたしは橘さんにジャッジを求める。
 橘さんはわたしの知る姿のまま、ツインテールを風になびかせつつ彼女の現実を告げてきた。

「もしもの話です。もしあたしが普通の人で、佐々木さんと同じ道を歩んでいたら、きっと今のあたしは佐々木さんの言う通りの人物になっていたと思うのです。
 そうなっていたらどれだけ幸せだったのかな。でも」
 橘さんは自分に非がないにも関わらず頭を下げると、わたしの知る彼女らしからぬ寂しげな声で謝ってきた。

「ごめんなさい。世界はあたしにその道を歩ませてくれなかった。
 あたしが佐々木さんの事を知っているのは、ある事情があるからなのです。ずっと見続けていたから。
 でも、それ以上の事はあたしに覚えはありません。
 あたしは、初めてこうして佐々木さんと会話するのですから」
「そう」
 いったい何処で道を違えたのか。
 橘さんや涼宮さん、古泉、クラスメート、それにキョン。彼らとただ普通に在り続けられる楽園で心地よく流されて過ごす人生。
 そんな小さな幸福こそわたしが求め、白紙の短冊に託した願いだったはずだ。どう間違ってもこんな酔生夢死な現状ではない。

 電気羊の夢と男が称した世界は、もう何処にも、無い。

 改めて思い知らされた現実に意気銷沈する。そんなわたしを気遣ってか、橘さんはそっとわたしの手を包み込む。
「佐々木さんが何を体験したのか、あたしにはわからない。だからあたしに言えるのはこれだけなのです」
 とった手を小さく引き寄せわたしに近づくと、橘さんはわたしの耳元へ囁くように告げてきた。


「電気羊の夢を取り戻す方法、教えてあげます」


- * -
 長い話になるから、とバンに案内されたわたしは後部座席に橘さんと二人きりで向かい合っている。
 安全基準を超えたブラックシートが貼られた窓からは殆ど光が入らず、また運転席助手席側には仕切りが立てられており、暗い車内からでは何処を走っているかもわからない。

「それは、あまりにも荒唐無稽な話です」
 車両走行の騒音にかき消されない程度に、それでいて抑えた声で橘さんが切り出した。
「佐々木さん。先ほども言いましたが、あたしは普通の人ではありません」
「普通の人なんて人種は何処にもいないわ。確かに異質としか表現できない存在に出会った事もあるけれど」
 あの男と黒の存在。あれらはどう見ても異常としか呼べない存在だ。
 おかげで今のわたしは普通人と異常者との境界線がかなり上方に対して修正されている。
 だが橘さんはそんなわたしの心境すら解っているといった感じで言葉を続けてきた。
「佐々木さんが誰と介したのかは大体予想できます。でも、それを踏まえた上でもあたしは、あたしたちは自分が普通の人だと言う事はできません。できないのです」
「個ではなく集合単位で語ると言う事は、ドライバーの彼も含めてという事かしら」
「彼は違います。でも、あたし以外にも存在します。そしてあたしたちと違う存在も、また」
 静かに目を閉じるとゆっくりと息を吐き、次の言葉のタイミングを計る。
 バンが速度を落とし何処かへ停車したのを身体で感じると、橘さんははっきりと告げてきた。

「あたしは、あたしたちは限定領域における異能力者。俗っぽく表現するなら、超能力者という存在です」

 奇怪な男、奇妙な存在の次は奇特な元知人とは本当におそれいった。
 これは一体誰の陰謀なのか。わたしという存在に精神攻撃を仕掛け、常識という人の本質を崩壊させるのが狙いというならば十分功を奏している。
 どうにも橘さんはわたしの反応を楽しみにしているらしい。わたしの知る彼女にもあった、何かを期待する時にツインテールを跳ねさせる癖が出ている。
 わたしは眉間に指を当て思考をフル回転させると、とりあえず彼女に質問を投げてみる事にした。

「とりあえず二つほど質問させて。まず橘さんのいうそのリミテッドな超能力とは一体どういったものなのか。
 そしてもう一つ。何故それを橘さんは出会ったばかりのわたしに話すのか。教えてくれるのよね」
「もちろんです。あたしはその為に、この時の為に三年もの間耐え忍んできたのですから」

 橘さんから聞いた内容は確かに荒唐無稽な話だった。
 神と呼ぶに相応しき力の存在。それを手にした涼宮さんと涼宮さんによって生み出された超能力者たち。
 手にいれられなかったわたしとわたしが生み出した超能力者たち。
 その者の内面的な世界とそこに現れる世界へのストレス、破壊衝動の塊《神人》と世界存続の危機。
 力に群がる数多の組織。観察しに送り込まれた宇宙人。調査に訪れる未来人。エトセトラ、エトセトラ。

 どれ一つをとったとしても使い古されたジュブナリア小説のネタぐらいにしかならない空想科学的な内容だが、あの存在を見た後ではあながち本当の事なのではと思えてくる。それに橘さんは本気で語っている。
「橘さんたちはわたしが溜め込んだストレスの化身を倒し解消させるべく、わたしの内面世界でその破壊衝動の象徴たる巨人、《神人》を退治している乳酸菌のような人たちだと、そういう事かしら?」
「いいえ。佐々木さんの閉鎖空間には《神人》は存在しません。佐々木さんは世界をあるがまま受け入れています。
 だから壊す存在も、その必要すらも無い。それこそ、あたしが佐々木さんの事を最も尊敬する部分」
 裏表無い言葉だと言わんばかりに瞳を輝かせつつ、橘さんがそっと手を差し出してくる。

「手をとって、眼を瞑ってください。
 佐々木さん自身を案内できるのかどうかは解りませんが、ご招待します──あたし達の楽園へ」



 もういいですよ、と合図されわたしは瞳を開ける。
 何処かへと移動した訳ではなく先ほどと同じバンの中だったが、どうも様子がおかしい。
 内装が、いや内装の問題じゃない。空気自体に淡い乳白色が加味されている。霧の中とはまた違った感じだ。
 運転席を見ればそこに先ほどまで座っていたはずの運転手の姿がない。
 いや、それ以上に先ほどからノイズが全く聞こえてきていない。
 そばを走る車や吹きすさぶ風、地面を転がる砂利や遠くで嘶く鳥の声、普通の状態なら自然と聞こえてくるであろうはずの音が、眼を開けてから全く聞こえてこなかった。
 それは詰まる所、音を出す存在がいないと言う事であり。

「外に出てみませんか。ふふ、佐々木さんに佐々木さんの内面世界を案内するなんて、何か不思議な感じ」
 橘さんはわたしの手を取ったまま軽く振る。握られてくる手の感覚がもう随分と前に思えてくるような、そんな懐かしい感覚に思わず微笑しながらわたしはその手を振り返した。
「自己啓発って言うのはちょっと苦手で。だからそう言ってもらえると助かるわ、橘さん」

 二人でバンを降りる。無機質な壁とコンクリート柱、そこに貼られたB1という階数と現在位置を示す記号。そして数多くの整理された車両。
 どうやらバンは何処かの屋内駐車場に停車していたようだ。
 ただ電灯の明かりとは別に、空気が白みを帯びている雰囲気は伺える。それと満員御礼状態の駐車場の割に人の生活に携わる雑音が何一つ響いてこないのも相変わらずだった。
「こちらです」
 手を取り続ける橘さんに案内されて駐車場を出る。
 階段を登り文字通り外に出ると、そこはモノトーンな天空が支配する生命を感じない森閑とした世界だった。
「ノーマンズ、いや人どころが何一つとして生きている物がいないノーライフランド……これがわたしの心中」
「違います、佐々木さん。何もいない今のこの世界はまだ完成状態ではないのです。
 ノーライフランドではなく、まだ何も産まれていない、不純なきイノセントワールド」
 橘さんは手を取り直してわたしの正面に立つと、愛おしさを加味した嫣然たる笑みを浮かべて表した。

「ここは白紙の楽園。佐々木さんの望むがままに作り上げる世界。佐々木さん、あなたはどんな世界を望みますか」

 短冊に願い事を書く行為のように、この真っ白い世界に望みを創り出す。
 わたしの願い、それは。


- * -


 無人となった世界で背中合わせに手を取り合いつつわたしは尋ねる。
「わたしの世界、キョンは居心地悪がっていたんじゃないかしら。橘さん」
「彼は自分が涼宮さんを選んでいるから、この新たに提示された世界を受け入れられない。そんな感じでした」
「そう」
 思ったとおりの感想に一息つくと手を離して席を立つ。わたしに並ぶように橘さんも隣に立つと、わたし達は白紙の楽園へと進み出た。

「後悔してない?」
 わたしの隣を並び歩く『共犯者』に聞く。橘さんは真剣な眼差しで、でも口元を微笑ませて笑い返してきた。
「さっきも言いませんでしたか? あたしは世界の安定を願っているって。宇宙人も未来人も超能力者も無い、みんながみんなただ普通の人として生きていける世界。これ以上の安定があるとは思えないです」
 そしてわたしの手を取ると心の底から楽しそうな表情を浮かべ、
「佐々木さんと浴衣を着てお祭りに行くの、すごい楽しみ」
そんな年相応たる普通の感想をわたしに教えてくれた。


 如何に詳細な歴史の教科書や人物伝記でも、その人間の行間までは読み取る事はできない。
 定期的な観測では僅か十数秒の空白の時間を取りこぼす事がある。
 そして何より、ここでの事象は未来から観測できない。
 時間を完全に支配するだけの力では、わたしの深に秘めた内心まで完全に捉えることはできない。
 敢えてキョンに対してすっとぼけた事を言い全く以って興味ないように振舞うのも、未来に気づかれぬようにここで全てを行うのも、全てはわたしの、わたしが短冊に書き記した願い事の為。

 そうだ、キョン。わたしははこの望みの為ならば、喜んで狂える神となろう。
 この世界のキミにとってはただ残酷としか思えない結果となろうとも、わたしはわたしが望む結末を齎す事に躊躇う事はしない。
 全てはわたしのエゴの為に。そしてそんなわたしと歩んでくれた、あの世界のキミの為に。
 今の世界のキミは、今の世界を選んだ。だから今度はわたしが、あの世界のキミに訪ねよう。
 無回答はなし、イエスかノーかで構わないから答えてほしい。


 ──今まで僕と歩んできた高校生活を、キミは楽しいと思わなかったのかい?


- * -

 そう、そこにはキミの出番なんて無い。
 キミは彼女や彼を知る事も無く、彼女の気持ちに気づくことも無く、彼女と話す切っ掛けも無く。
 ただ淡々とした日々が繰り返される中、わたしだけがキミと共に歩む事になるだろう。
 倦怠感漂うサイクルに対しキミは人生なんてこんなものかと思うかもしれない。
 それこそがわたしが望んだ最高にして最善なサイクルなのだと、キミはわたしの気持ち同様に気づくことも無く。

 キミの出番は無い。
 わたしが、キミの全てを取り上げてしまうから。

 短冊へ願いを記すのは、織姫の機の上手さを羨望した娘達が天に祈ったのが起源だという。
 わたしも羨望した願いをここに記そう。



 電気羊の夢を、取り戻そう。


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